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新しく建設されるマンションは 屋上に山があり その上に霊廟があるので 住人なら鬼籍に入ったとき誰でもその霊廟に祀られるということだった 墓参りは不要 清掃業者が毎日 掃除に来てくれる そもそも一人ずつに卒塔婆や墓標があるのではなく 大きな祠に骨を納められるのだから ある意味ではみな同じ墓に入るということになる 住民はみな同じ信仰の対象をもっているのだろうか 或いは自殺者もそこに入ることを許可されているのか 考えていたら目に入った謳い文句 望むものなら誰でも結構! 扉を叩くものだけが中に入れるのです

 

いつだったか 歩いていたら四ツ谷の地下納骨堂に辿り着いたことを思い出した どうしてそこへ行ったのか どのような道順で行き着いたのか まるでわからなかった そもそも隣にいたのが誰なのかも憶えていない ずっと手を繋いでいたはずなのに

 

マンションのチラシを古紙回収に出したところで目が覚めた 夜明だ

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他人の痛みを解ったような気になる高慢さと 理解させようとする傲慢のあいだで 愛するひとの望む答えを さも心からの願いであるというように思いながら生きることを 幸福なのだという

「でもそれって本当なの」

「もちろん」

「あたしがどんなに傷ついているか知らないくせに」

「いやいや わかっていますとも」

「嘘よ」

 

ところであなたは誰なんです?

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お互いに名前を覚えていなかったので 彼はわたしを "du" と呼び わたしもやはり "du" と呼んでいたのだった 人称代名詞や 愛称ではなく 今更確認して名前を呼ぶのはなんとなく躊躇われたので あるときベッドの上でわたしは "Herr Niemand" と呼んだら 彼は驚いたような顔をして 消えてしまったので 間違って呼ばれて傷ついてしまったのかもしれないし もしかしたら それがほんとうの名前で

或いは はじめから誰もいなかった

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わたしはいつか あのひとがわたしではない女を幸せにしたとき 妬まないで済むようになるべきで それはわたし自身が幸せになるということであると思うけど あのひとなしで幸せになるなんてことがあるのか疑問だし あのひとに関わる人々の関係性はともかく わたしを好きでいてくれるなら それで充分幸せだと思う (またはそれが不幸のはじまりなのだ)  あのひとが誰のこともそれほど好きではないとしても 誰のこともひとしく好きであるとしても なにも生めない なにも生まれない

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例えば記憶を上書きするなんてことは容易で 元から覚えが悪いから消去してしまうことだって可能ではあるのだけど 今のところまだ約束は守っている 誰と指切りをしたわけでもないわたし自身との約束 守っても破ってもどうにもなりはしない秘密

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雨で布団が干せなかったので そのままベッドの上で過ごした 夕方 夢の中にピンク色の髪をしたあの子が出てきてとても嬉しかった 一緒に電車に乗ってたんだよ ほんとうに可愛かった

あと20センチ脚が長かったら わたしもヴィクシーのエンジェルになりたかったなぁ 白いファーの羽根をつけて下着姿でランウェイを歩くなんて最高じゃない もしくはパリやミラノのいろんなメゾンを渡り歩いて暮せたなら たった10秒間のショウタイム なんて素敵なんだろう 限りある美しさとはかくも儚く愛おしい

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煤けた桃色の髪飾りを買った 花のかたちをしたクリップでとても愛らしい フランス製の髪飾りはどれも普遍的な可愛いさがあり 他にも鼈甲色をしたリボンのかたちのバレッタとか 三日月みたいな細いピンとか 10年くらい使っても少しも痛んでいないし 流行遅れになるということもない

でも20年以上前に まだ髪が長かった母が買ったドイツ製のヘアクリップは 今ではわたしの髪をまとめているからもっとすごい バネがちっとも緩まないのだ 綺麗なスワロフスキーのラインストーンも ビーズも付いていないけれどそれですこしも不便はない 近所の雑貨屋で千円もしなかったと思う そういえばまだ通貨がユーロではない時代のことだった

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誰に聞いても好青年と云われるひとがいて わたしは彼に会ったことがないから 形而上の存在となった好青年である彼に憧れ続けている 本当に誰からも悪い評判を聞かなくて 彼を知るひとはただ「好青年だよ」という (時々文頭に 眼鏡の という外見的情報もつく)  でも そんなひとって実在するんだろうか わたしはまだ 会ったことがないけれど

 

誰に聞いても 無頼漢と云われるひとがいて わたしは彼が好きだから

「彼のことが好きだから心配なの」という女に 男の店員は「わかるよ 君は彼が好きだものね」と相槌を打っていた わたしはキングサイズのミントチョコレート・アイスクリームをワッフルコーンで バディはレギュラーサイズのストロベリー・アイスクリームをカップ入りで注文した ひとくち交換しようと言ったら ミント味のチョコレートは嫌いだからいらないと断られたけど ひとくち味見させてくれた まだ少し寒かったので 食べ終わるころには唇が青くなったけど とても美味しかった 

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近頃とても疲れている 春が来たらニルゲンドヴォ村へ帰ろう 緑きらめくわたしの故郷 もうそれほど多くのひとは暮らしてはいない 見離された最果ての土地 名前を奪われ 地図の上から消え去った場所 花咲き乱れたる最期の楽園 誰もそこから生まれないから 愛も憎しみも何もない 本当にもう 何もない