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目の周りが乾いたように感じる そうだ さっき少し泣いたんだ
水曜日 そうだ 今日はまだ週半ばだった あまりに多くの出来事が起きて まだ混乱が続いている むかし働いていた住宅販売会社では契約が水に流れると言って水曜日が休みだった 流れるように生きるより もっと根を張り伸びるのがいい 成績は悪かったが 実際 家はそんなに悪くなかったんだがなぁ そうだ 根無し草の兄が死んだのだ あの穀潰し 親父が死んだから遺産は全部俺のものだなんて 全部すっちまってよう どうするんだ なぁ また逃げるのか 地球の裏まで
ミュゼウムで上映されている映像で流れる音楽をとても懐かしく思ったので 隅っこに立っている女に何という曲名か尋ねたら ちょっとわからないと言われた 「なにせ随分古い映像ですので」「これもアルメニアの音楽なのかしら」「ええ それは確かなんですけどね」
女から離れたあとでわたしは少しだけ泣いた
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どうして水槽の水はいつも青緑色に透けるのだろう 鋭利な刃物のように尖ったヒレが水面を切り裂き 無数のあぶくを噴き出させる 突風が吹き付けて花を一斉に散らすように あぶくは煌めく
人工海水で満たされた海は 驚くほど精巧につくられていて わたしにはもう本物の潮騒を思い出すことは出来ないだろう LEDライトの照明が明けることのない夜を照らし 眠ることも目覚めることもなく 水槽のなかで産まれたこどもたちは 黎明の空を知らぬまま還ってゆく (しかしそのことに理由や意味を見出すのは水槽の外の話である)
しばしば足のつかない深いところを泳ぐ夢を見る けれどもわたしは顔をあげたまま 速さは出せないけれど あまり疲れずに泳ぐ方法を知っているから 少しも嫌ではなくて むしろ延々と腕を動かし どこまでも続く海原を越えてゆきたいと思っている
だがその海は本当は模造品なのだ わたしの夢のなかで海はもう干上がってしまったから 涙で出来た水溜りしかない そのことを思い出すと 無いはずの対岸にたどりつくので 身体にまとわりつくオリーブグリーンのドレスを水中に揺蕩わせながら 腕を伸ばして照明の電源をつけた 白熱灯のひかりが世界を照らし わたしは岸辺にあがる 鱗だらけの身体で草叢のうえで眠る