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とてもたくさん歩いた気がするけれど 歩数計を見たら6,000歩ちょうどだった

歩くのは好きだ ひとりで川沿いをゆくのも好きだけど 好きなひとと一緒にあてもなく手を繋いで歩くのはもっと好き どこまでも陽が沈むまで道が続く限り そうして歩き疲れて公園のベンチに腰掛けながら「どうしてこんなところへ来たの」と尋ね 彼は「君が来たんだよ」と答える

わたしたちは恋人でも 友達でもないので 行き先はどうだっていい 街灯のあかりがぽつぽつとつきはじめ わたしたちはまた歩き始める 「もう帰らなくちゃ」「そうだね」それからふたりで口付けを交わしてから「また明日ね」と別れた

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目の周りが乾いたように感じる そうだ さっき少し泣いたんだ

 

 

水曜日 そうだ 今日はまだ週半ばだった あまりに多くの出来事が起きて まだ混乱が続いている むかし働いていた住宅販売会社では契約が水に流れると言って水曜日が休みだった 流れるように生きるより もっと根を張り伸びるのがいい 成績は悪かったが 実際 家はそんなに悪くなかったんだがなぁ そうだ 根無し草の兄が死んだのだ あの穀潰し 親父が死んだから遺産は全部俺のものだなんて 全部すっちまってよう どうするんだ なぁ また逃げるのか 地球の裏まで

 

 

ミュゼウムで上映されている映像で流れる音楽をとても懐かしく思ったので 隅っこに立っている女に何という曲名か尋ねたら ちょっとわからないと言われた 「なにせ随分古い映像ですので」「これもアルメニアの音楽なのかしら」「ええ それは確かなんですけどね」

女から離れたあとでわたしは少しだけ泣いた

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綺麗な水を手に入れるためにひとは深い井戸を掘らねばならないが 普通の生活を送るためには 普通の人間にならねばならない 抜きん出ても 埋もれていてもいけない 人並みになることの難しさ 苦痛ばかりが土壌に染み込んでゆく ここらの土地はもう駄目だ 恥辱ですっかり汚染されてしまった どれだけ土を掘っても塩水しか出ない 割れた爪の間に泥 娘としても女としても努めを果たせなかったことは 何者にもなれないということよりもずっと惨めで それでもまだ生きていなければならない 岩だらけの荒地で

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どうして水槽の水はいつも青緑色に透けるのだろう 鋭利な刃物のように尖ったヒレが水面を切り裂き 無数のあぶくを噴き出させる  突風が吹き付けて花を一斉に散らすように あぶくは煌めく


人工海水で満たされた海は 驚くほど精巧につくられていて わたしにはもう本物の潮騒を思い出すことは出来ないだろう LEDライトの照明が明けることのない夜を照らし 眠ることも目覚めることもなく 水槽のなかで産まれたこどもたちは 黎明の空を知らぬまま還ってゆく (しかしそのことに理由や意味を見出すのは水槽の外の話である)



しばしば足のつかない深いところを泳ぐ夢を見る けれどもわたしは顔をあげたまま 速さは出せないけれど あまり疲れずに泳ぐ方法を知っているから 少しも嫌ではなくて むしろ延々と腕を動かし どこまでも続く海原を越えてゆきたいと思っている

だがその海は本当は模造品なのだ わたしの夢のなかで海はもう干上がってしまったから 涙で出来た水溜りしかない そのことを思い出すと 無いはずの対岸にたどりつくので 身体にまとわりつくオリーブグリーンのドレスを水中に揺蕩わせながら 腕を伸ばして照明の電源をつけた 白熱灯のひかりが世界を照らし わたしは岸辺にあがる 鱗だらけの身体で草叢のうえで眠る

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名前を忘れた植物の 効能だけを覚えていたり 台詞を忘れたまま動いたりして 満点が取れない  花壇が開いていたので 花でも買ってこようと家人に相談したら おまえ そこには球根を植えたと言ったじゃないかと笑われ 確かになにか埋めたし 咲いたのだった 思っていたより派手な色のチューリップだった

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窓から見える銀杏の木に芽吹いたちいさな ちいさな葉が ちゃんと銀杏のかたちをしていて それは 街をゆくひとびとの髪型や服装がどれだけ変わっても 新しい生活を始めたばかりの若者たちが見せる初々しい表情が変わらないのと似ている

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知らない街の ややこしい綴りの名前がついた石畳の通りを 颯爽と歩いている彼とは まだ会ったことがない たぶん左の肩甲骨のあたりに青い鳥の絵が飛んでいて 煙草はゴロワーズの赤い箱 ラムよりもコニャックが好きだけど 牛乳も好きだからとても背が高くなった 毎朝8時に起きてシェパードの散歩をしてから仕事へ行くのが日課で 週末の夜には友達と一緒にビリヤードへ行ったり バスケットをしたりする もしかしたら菜食主義者かも なんだかそんな気がする でもきっとエスカルゴは好きだと思うな そんな気がするのよ まだ見たことも 話したこともないんだけどね

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焼いた肉を食べさせてくれるというので食べに行った ナイフで細かい切れ目を入れて柔らかくした 何かよくわからない赤い肉は 味がついていて 網の上でよく燃えた 焼けるというよりは燃えたのだった



むかし 奮発して精肉店で一番高級な牛肉を買おうと意気込んで行ったら 100g買うのに半日働く必要があったので辞めた 店の親父はその日ショウケースに並んだうち一番安かった豚の細切れを それでも丁寧に包んでくれたことを思い出した