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靴を売った 酷く傷んでいたので ほとんど値段はつかなかったのは仕方がない 随分前に古着屋で買ったとき 既に傷だらけだったのが 今度こそ本当にぼろぼろになってしまった 或いは捨てるべきだったのだけど 長年履いた靴を一体どのように処分すべきかわからなかったのだ 値段交渉にこれっぽちも応じる気がない店員から銀貨を1枚もらうと 店を出て 絶対にうしろを振り返らなかった そうするのが最善だと思われたからだ

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ツツジの植えられた花壇の傍を通りながら 「子供の頃よく蜜を吸ったわ」と彼女は懐かしそうに言った 「今も吸いたい?」立ち止まって濃いピンク色の花弁を摘むと 雌蕊や雄蕊を残してつるりと抜けた 根元に触れると透明な糸が つぅとひいた 「駄目よ 勝手に千切ってはいけないわ」

彼女は僕の手首を掴み 花弁と指先を舐めた 紛れもなく僕たちが罪を犯した瞬間だった

 

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まだK市に彼のアパルトマンがあった最後の初夏 群青色のドイツ車 薄荷煙草とワインの夜 名前を忘れてしまった映画とローストビーフ

 

激しい行為のあとで 彼はわたしをベッドに縄で縛りつけたまま眠ってしまった 無茶苦茶だった ふたりともお互いのことをこれっぽっちも愛していなくて ただ貪るように肉欲に溺れ なにも残らなかった 朝 わたしはひとのかたちをした獣の性器を愛撫しながら ふいに死んだ恋人のことを思い出し 我に返った瞬間 自分自身もまた獣であることに気づいた

 

わたしは呪った 鏡に映った自らを 色が似合わない口紅を 腕に残った縄目と痣を 痛みを 肉体的 精神的 あらゆる痛みを呪った 男の性器を 煙草臭い唇を 肥った腹を 傲慢な話し方を 呪った 呪わずにはいられなかった 孤独になった理由を もう決して若くもないのに いつまでも繰り返す過ちのことを 喪失を肉で埋める以外の方法を知らないことを そしてまたひとつの関係が破綻してゆくことを呪い 大いに失望したのだった

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寂しさを理由にひとの気持ちを利用するなよ

 

あらゆる想像力の欠如という暴力 失って初めて後悔するのは当然のことだけど そうなることを予測することは出来たはずなのに 激しい興奮の内に忘れてしまうのか 治った傷の痛みを永遠には憶えていられないように

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音楽は苦手だけど好きだ 大きな声で歌えば褒められるころまでは良かったけど 楽譜が読めなくて 覚えるのも出来なくなってから てんで駄目になった 三角比の定理や 物質の熱量について結局理解することはなかったみたいに 16ビートが何か未だにわかっていない でも好きなリズムというのがあって 聴くととても気持ち良くなれる 身体を揺らしながら 眼を閉じ 溢れる音の海で溺れるという快楽 自分で演奏出来たらもっといいのかもしれないけど ミラーボールが回るフロアで両手をあげて踊るのが好き キスするくらい近くまで顔を近づけて 女の子同士で話すのは 内緒話をしてるみたいだけど とても大きな声で喋ってるからそうじゃない 「だいじょーぶ?」「ぜんぜんヘーキ」 汗だくになって笑う夜の速さはBPM180くらいなんだと思う きっと

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砂利道をゆっくりと歩いた 昼下がり 風がすこし強い そういえば今年は春一番を聞かないうちに季節が変わっていたんだ

木枯らしのことも知らなかった 知らない間に年が明けていたんだった

 

声を聴きたい そう思うけれど なにも話すことがない 聞きたいこともない 電話は好きじゃない 次にいつ会えるかだけ教えてくれたら切ってくれて構わないとさえ思う でも あなたの声が聴きたい

 

雲雀が歌うように 風が轟くように 蜂が花から花へと飛ぶように 雨粒が窓を叩くように 木々の枝葉が揺れるように 河が流れてゆくように あなたの声が聴こえたらいいのに

あなたの声が聴こえたらいいのに

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白いライラックにはとても悲しい伝承があるので この花が5cmくらいの冬に咲くオレンジ色の花だったら良かったのにと思う でも一体 ベンジーはどんな花を想像していたんだろう

 

街角に咲くリラ 降り注ぐ光と芳香 5月の風 誰もいない目抜き通り 安寧のなかにただひとりいることを孤独だとは思わない

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出来レースの勝敗に先生は狼狽していた 安心していいよ 私たち3人とも留年間違いないから 当分ここにいるよ 心配しないで

 

副委員長は聞きたいことなんかないのに とにかくなにか質問しなくてはいけないと思っているから 見当違いなことを言って途中から聞かなくなる 委員長が時計の針を気にしながら 無理矢理話を終わらせた ひとつも決着はつかなかったけど とまれ休暇だ!

 

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好きなひとの為ならどんな苦痛でも耐えられるということ 苦痛に耐える自分自身が好きということ 苦痛を味わうのが好きということ 被虐趣味の性癖は様々な要因があるけれど 自分以外のために苦痛を選ぶのは悲しいことだと思う 加虐する人たちが求めているのがなにか 見極めなければならない それは容易ではないことだ

ところでわたしはもう何も耐えられない 誰かの為に耐えることもしたくない そして誰かがわたしの為に耐えているとしたら それこそが一番耐え難いことなのだ 早く楽になりたい 口が裂けても言ってはならない暴言を吐いてしまう前に

 

まだ若いから なんでも出来るわ 健康だから 綺麗なのに 勿体無い 良い学校を出たのに 選ぶからいけないのよ 理想が高すぎる なにがしたいの それは無理よ 絶対に駄目

 

なにが出来るっていうの

 

 

わたしは自分自身のために腕を切る 鋭利な刃物が肌を切るのに痛くないはずがない 皮膚が裂けて 白い皮膚の間から滲みだした丸い血の雫が隣の雫と繋がって大きな楕円になり 涙のようにぽろぽろと落ち始める もうこれしか出来ない 腕についた何本 何十本もの白い線は古い傷 そこへ重なってゆく赤い線 もうほんとうに何をするのは良くて 何をしたら駄目なのかわからない わたしは わたしの愛するひとが幸いであることを祈ること以外にどうにも出来ないけれど せめて そうすることは出来て佳かったと思う

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髪を染めたり ピアスをつけたりして 同僚を誘惑しないようにと言われたのは 単なる忠告ではなく ある意味では侮辱であるが わたし以外のひとが許可されている点を考慮すれば 特別に魅力があったというふうに考えたならば優越でもある けれどもし髪を染めるなら 断然くすんだ青色がいいし ピアスを開けるなら0ゲージまで拡張して そこにアナトメタルの上品なゴールドのアイレットを嵌めたい きっと長い青髪から覗く耳朶の孔には不思議な世界が透けて見えるだろう