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乾いてしまった絵の具 二層に分離した液体 固まって蓋が開かない瓶 脚のもげた蝶

 

蝶番が壊れた木箱は昔 ケルキパ共和国で暮らす友人のMがくれたもので 明るい色の光が塗られている 開けるのは簡単だけど 閉める時が少し難しい ちょっとだけ左右にずらして ネジ穴に番人が挟まったのを見計らって押さえつけないといけない 彼らはしばしば酷く嫌な悲鳴をあげるのだけど そうしないとちゃんと締まらないし もう二度と鍵のほうも動かないと言うのだ しかしケルキパの言葉で言っていたので そのことを理解するのに10年かかった

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保障された身分と引き換えにされた時間 千円札で巻いた命の細切れ 血みどろソース仕立て 作っては食べ 食べては吐くだけの繰り返し あなたの鼻血と わたしの胃液が ひびがはいったボウルのなかで混じり合う 白くて脆い器なかで泡立ちながら わたしたちは両手で混ざり合う 鉄と酸とアンモニアの匂いのなかで交じり合う 骨と肉が砕けてしまうまで いつまでも


そんなこと 求めてなどいなかったのに

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黄色い砂はまだ若い砂

赤い砂は眩暈を起こして 黒い砂は眠っている

 

身体を動かすのがつらいが 遠くで鐘の音がなり合唱が始まった 祈祷の言葉を唱えているのだが 言葉がわからない自分には歌のように聴こえる 通訳をしてくれた娘によると 何千年も昔に高名な詩人が編纂した平和を祈る詩歌を唱えているそうだ かつてここいらは緑が溢れる美しい街だったと娘は言った 建物は土ではなく大理石でつくられ 遥か北方にある山から流れる冷たい水はとても清らかで 人々の暮らしそのものであったと 今では川は干上がり 深く掘ったはずの井戸も枯れてしまった 心が渇いたのと 街が乾いたのと どちらが先かなど問題ではないけれど と娘は前置きしてから いつか砂が眠ってしまえばいいのだけどと言った 眠った砂は黒くなり どろどろにふやけて土になるというのだ 娘はサボテンの棘を折り そこから零れ出した水を器にあつめながら祈祷の言葉を歌った

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汗ばんだ肌は永遠に乾くことがないかのように蒸し暑く湿っている 土で塗られた壁は冷たいが しばらく触れていれば体温がうつってしまう とにかく暑いのだ ここでは日が暮れるまで外に出る者はいない どれだけ格子の向こうで揺れるブーゲンビリアが涼しげに揺れても 荒地で本当に揺れているのは蜃気楼なのだ わたしはアルマイト製の器に注がれた水を飲んだ それはぬるくなった海水だった

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靴を売った 酷く傷んでいたので ほとんど値段はつかなかったのは仕方がない 随分前に古着屋で買ったとき 既に傷だらけだったのが 今度こそ本当にぼろぼろになってしまった 或いは捨てるべきだったのだけど 長年履いた靴を一体どのように処分すべきかわからなかったのだ 値段交渉にこれっぽちも応じる気がない店員から銀貨を1枚もらうと 店を出て 絶対にうしろを振り返らなかった そうするのが最善だと思われたからだ

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ツツジの植えられた花壇の傍を通りながら 「子供の頃よく蜜を吸ったわ」と彼女は懐かしそうに言った 「今も吸いたい?」立ち止まって濃いピンク色の花弁を摘むと 雌蕊や雄蕊を残してつるりと抜けた 根元に触れると透明な糸が つぅとひいた 「駄目よ 勝手に千切ってはいけないわ」

彼女は僕の手首を掴み 花弁と指先を舐めた 紛れもなく僕たちが罪を犯した瞬間だった

 

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まだK市に彼のアパルトマンがあった最後の初夏 群青色のドイツ車 薄荷煙草とワインの夜 名前を忘れてしまった映画とローストビーフ

 

激しい行為のあとで 彼はわたしをベッドに縄で縛りつけたまま眠ってしまった 無茶苦茶だった ふたりともお互いのことをこれっぽっちも愛していなくて ただ貪るように肉欲に溺れ なにも残らなかった 朝 わたしはひとのかたちをした獣の性器を愛撫しながら ふいに死んだ恋人のことを思い出し 我に返った瞬間 自分自身もまた獣であることに気づいた

 

わたしは呪った 鏡に映った自らを 色が似合わない口紅を 腕に残った縄目と痣を 痛みを 肉体的 精神的 あらゆる痛みを呪った 男の性器を 煙草臭い唇を 肥った腹を 傲慢な話し方を 呪った 呪わずにはいられなかった 孤独になった理由を もう決して若くもないのに いつまでも繰り返す過ちのことを 喪失を肉で埋める以外の方法を知らないことを そしてまたひとつの関係が破綻してゆくことを呪い 大いに失望したのだった

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寂しさを理由にひとの気持ちを利用するなよ

 

あらゆる想像力の欠如という暴力 失って初めて後悔するのは当然のことだけど そうなることを予測することは出来たはずなのに 激しい興奮の内に忘れてしまうのか 治った傷の痛みを永遠には憶えていられないように

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音楽は苦手だけど好きだ 大きな声で歌えば褒められるころまでは良かったけど 楽譜が読めなくて 覚えるのも出来なくなってから てんで駄目になった 三角比の定理や 物質の熱量について結局理解することはなかったみたいに 16ビートが何か未だにわかっていない でも好きなリズムというのがあって 聴くととても気持ち良くなれる 身体を揺らしながら 眼を閉じ 溢れる音の海で溺れるという快楽 自分で演奏出来たらもっといいのかもしれないけど ミラーボールが回るフロアで両手をあげて踊るのが好き キスするくらい近くまで顔を近づけて 女の子同士で話すのは 内緒話をしてるみたいだけど とても大きな声で喋ってるからそうじゃない 「だいじょーぶ?」「ぜんぜんヘーキ」 汗だくになって笑う夜の速さはBPM180くらいなんだと思う きっと