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わたしは流れている 流されるのではなく 自ら流れている 水ではない 浮かぶ木の葉やあぶくでもない 流れているもの自体がわたしだ 時折とても強い力を感じる それは重力 あるいは引力のように当たり前に存在し 疑うこともない力だ 或いはそれが運命なのだろうか 砂場に落とした磁石についた無数の砂鉄を洗い流せないように わたしは流れている とても烈しく 熱をもつことも 記憶することすらも忘れて 意志だけが知っている行先へ

 

流れる

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鳴り続けるアラームを誰も止めない 部屋のなかには行ったりきたりする白い服の女と 入れ替わり立ち替わりする知らない顔の連続で 木々の間で輝いていた光は知らぬ間に消えてゆく 夜は薄い麻の帳のように落ちて 窓ガラスに反射した蛍光灯がやけに白く映っている 開くことのない扉の向こうに広がる芝生は月明かりで蒼いけれど 照らしている月は見えない そちらの方向に窓はないから

 

風の音が聞こえない アラームの音だけが鳴り続けている 土の温度も 雨の冷たさも クチナシの花の香りも思い出せない 紫外線と熱を遮断した窓ガラス越しの太陽はそれでも眩しいというのに

 

 

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今年初めての向日葵を買った 昨夜の満月のように黄色く 長い茎はしなやかで瑞々しい

 

旧い友達が近々こちらへ越してきて暮らすらしい わたしたちの母国語をこどもたちへ教えるという それはなんとなく不思議な感じがする かつては私たちふたりとも 別の国でそのようにして言葉を学んだのだけれど

彼とはN市にいたころ 一度会ったきりで それはまだふたりともとても若かったときのことだ たぶんそんなに変わってはいないと思う 見分けがつかないほどには

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古い手紙を読みながら 誰も不幸にしなくて済んだことを喜び 救いようのない愛の言葉を それでも愛しく想う 冬だったか 夏だったのか 夜の駅で抱きしめたいという彼の申出を拒んだことは 間違ってはいなかった 後戻り出来ないほどの烈しさで身を焦がすには早すぎたから

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通り過ぎていった季節の変わり目に立ち止まることを決めたひとの 瞳の色も髪の色も 海の色だった 6月の砂浜に散らばった白い骨が波にのまれてゆく 満月がどれだけあたりを照らしても 真昼にはなれないことを嘆く必要などないのに

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青い布は乙女が兄弟の呪いを解くために編むベスト あるいは少年が手作りした服 どのようにして青く染めたのか思い出せないけど あの絵本がとても好きだった 青い表紙 横長の本 羊飼いの少年の髪は黄色く塗られていて それは柔らかな天使の金髪

 

大抵どの国も 暮らしているうちに嫌なことがあったり 腹が立ったりするし 北方にいたときはとにかく寒いのが嫌だった わたしは毎日マカロニと肉団子とライ麦パンかライ麦クラッカーを食べ 薄いコーヒーと薄いオレンジジュースを交互に飲み たまに法外な税金がかけられた外国煙草を喫んだ それは別に悪くなかった

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言われた通りに動くのも 言われたことを聞かずに文句だけ言うのも どちらも変化をもたらさない 何を言ってもにこにこしているあの人は それは毒だと怒っても 同じ茸を拾ってくる でも本当はわかっていてわざとしてるだけということを誰もが知っていて やっぱり知らないふりをする ここでは誰も言うことを聞かなくて 好きなことを言えるから それが自由だと信じてるから

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ローズマリーメデューサの寝癖頭みたいに茂るので短く刈り込んだ 収穫はいつでも使いたい時になんて そうそう使うこともないわけで 大体夏前に軽くしている 妖精の涙で濡れた草で編んだリースは魔力が強い 6月の庭でわたしは妖精たちに折檻をして泣かす そうして溢れた涙は驚くほど熱くて 泣き腫らした顔から蒸気をあげるちいさな妖精はとても可愛い

 

 

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近頃わたしはとても疲れてしまった 気のせいか白髪も増えたし 目尻の皺も目立つ 疲れたなんて言いたくないのに 身体が言うことをきかなくてはどうにもならない

 

海に行きたい

今はまだ泳ぐには適切な時期ではないし たとえ可能だとしても気力がない けれど波の音を聴きたい 冷たい水に手を差し込んで 指から落ちる雫に太陽の光を反射させたり 本当に塩の味がするのか舐めたりしたい 嵐がくる前の夜 わたしは知らない人と砂浜を歩いていた 今ではとても愛しいひとであるのに 未だに彼が何者であるのか理解することが出来ない 横顔が特別に美しくて 長い黒髪が潮風に吹かれて流れるのは あの丘のある街にいたひとそのものだった

 

もう彼はここにはいない どの海を探しても 嵐のあとで わたしは稲妻のように消えて 戻ってきたときには既に遅かったから 今ではもうすっかりくたびれてしまった 誰が悪いということもなく 恨むこともなく

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いつかまた何処かであなたと会えたらいいのに
それが夏で すこやかな森のなかにある湖のほとりであればもっと素敵だ 鳥が歌い蜻蛉が舞う 青草の生えた岸辺 穏やかな陽射しと冷たい風を 短く眩しいひかりの季節を あなたと過ごせたらいいのに

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