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いまではもう踊りかたをすっかり忘れてしまった テキーラの焼けるような熱い甘さとか 革張りのソファの柔らかさとか どのようにして過ごしたんだろう いつかの夏 N市のクラブで 屈強な身体付きをした海兵隊の男や 陽に焼けた肌が美しい若い女たちと一緒に明け方まで踊り続けて なにが というわけでもないけれど とにかく楽しかった 心が感傷で痛む速度を通り越して ミラーボールは煌めきながら回る 真夜中の太陽のように

 

長い黒髪に白い花を飾った娘とは ごく自然に惹かれあい 口付けを交わした ダンスフロアで身体を寄せ合い とても原始的な方法で欲望のままに求めあったことを いつまでも憶えていたい 美しいものを純粋に愛でること 第三者の常識に囚われぬこと ひと夜限りの夢は短い 

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一瞬で通り過ぎてった曖昧な感情のこと 愛でも恋でもない不確かな けれども悪くはない 熱帯夜に吹く湿った風のような温度 なにも望んではいけないこと 花が揺れるただその一瞬だけを尊ぶことを忘れないで

 

彼らの手は大抵わたしよりも平たく 大きなかたちをしていて温かく それでいて繊細に動く 驚くほど滑らかに

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あなたのことを忘れそうになる 狂いそうなほど愛していたはずなのに いとも容易く 何度会っても あなたの顔を憶えることが出来なかった そのような不透明さは あなたという存在をより一層神秘的にさせていたのだけど いまではもうほとんどなにも思い出せない わたしがあなたを愛していたということ以外 なにも

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日曜日 友達に会えない 嵐の日 ずっとまえに解散したバンドの音楽を聴いている 初めて聴いてからもう随分経つのに すこしも古くならない いつまでも好きな歌 生きているひとも もういないひともいて それでも想いだけが残っている 理解することは出来なくても

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なんといえばいいのか 限りなくピンクに近い菫色のヴェルニを持っていて 瓶のなかで揺らぐときには確かにパールがかった紫色だのに 塗ると愛らしいピンクに見える それは 試さなければ絶対買わないような色で なんとなく惜しい わたし以外に誰もその魅力に気づかないのもいいけど 廃盤になってしまったのはやっぱり悲しい

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氷砂糖に漬けた青梅はゆるやかに成熟し 透明な液体のなかに浮かんでいる 溶けきっていない氷砂糖は白い輪郭を持ち沈み 揺らすと砂時計のようにさらさらと動くのが楽しいのか 彼女は瓶を抱えながら何度も揺らして遊んだ

 

子供の頃の思い出に梅酒はない 親戚の誰かが漬けたのをもらってこっそり飲んだこともない 庭の隅に実った梅は全て干されてしまったから

おばあちゃんがつくる梅干しは塩辛くてとても食べられなかった 冬にそれを焼いてお茶に入れたのを飲むのは好きだったけれど 塩の結晶が紫蘇と同じくらいついてきらきらしていたのだ

梅酒は本当に身近になかった だからわたしも梅酒は漬けない 子供も飲めるようシロップにした

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すてきな男の子たちは 大抵だれかすてきな女の子と一緒になっている 薬指にひかる指輪がきれいね ひとりぼっちでいる男の子や女の子がダメいうことではなくて 恋人同士の遊びよりすてきなことを知ってたら仕方ないし 人生は短すぎる 楽しい時間は特に

 

ふだん全然几帳面じゃないのに 抱けると思って こまめにメールをくれるとこが好き いいよ 抱きたいならそうすれば好い それ以上でもそれ以下でもない対等な立場であるなら結構 早く始めましょう 人生は短すぎる ふたりの気が変わる前に 早く



苦痛抜きの快楽がほしい なにも考えずにひたすら溺れるだけの愛がほしい 人生は短すぎる 死ぬにはまだ早いだなんて それだってもうどうだか

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「また連絡してね」と言う こん畜生め 悪いおとなばかりだ! 台風が過ぎて 街はびしょ濡れになり アスファルトのあちらこちらに虹が浮かんでいる 幼いころによく棒でつついて遊んだものだけど あの正体を未だに知らない たぶん自動車の油だというのが我々の結論だったけど

 

また遊ぼうと言って もう遊ばなくなった友達は沢山いるけど 直子ちゃんは違った どうしてかわからないけど「最初で最後かもね」と言った 直子ちゃんは足が速かった わたしも一緒に走って でもそれだけ 直子ちゃんと遊んだのはそれが最後だった おとなは遊ばないから

 

ああ 冒険がしたい まだ行ったことのない山へ行って 木で作られた階段を登ったり 沢を歩いたり 綺麗な花や夕焼けを眺めたい それか まるで少年のように街へ出たい キャップをかぶり スニーカーを履いて遊びに行きたい