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遠い空に残っている積乱雲の白さが 夕陽で赤く染まり ほんの少し秋色になっている 田畑はもう豊穣のとき 農夫たちは健やかに育った稲穂を刈り取りにゆく かつてからここいらは やはり穀倉地帯であった 肥沃な土地であったのだろう 変わらずに人々が暮らし続けているのだから 

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旅券を申請しながら あのひとの故郷のことを思い描いた 午後の陽射しは残暑のそれで しばらく坂道を歩いただけですっかり消耗してしまったが 休む暇もなかったので歩き続けた

わたしが知らないあの人の暮らした町 あの人もまた わたしを知らない 名前を奪われ 言葉を蔑まれ 歴史を踏みにじられて 運河と通りだけが変わらずにある町を いつか訪れる日が来るだろうか

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ほんの少し生きやすくなるために自分を殺す 清流を流されるのは気持ちいい 行く先さえ定めてあれば ときには流れてゆくのも悪くないから 楽にして

 

「あの時死ねばよかった」と考えたことのあるひとですら 今まさに死にそうなひとに「もっと頑張れ」と言う 恐らく悪意もなにもない それは単なる想像力の欠如によるもので 他人の痛みは理解し難いものであるからだ そのことでどうか傷つかないでほしい 大抵のひとは忘れていってしまうし 逃げたことでとやかく言われる筋合いなんかないのだ  「あの時おまえが逃げたから」と罵られたなら「おかげで生き延びました」と続けたらいい 逃げ損ねて死んだひとのこともどうせ忘れてしまうんだから

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薄皮一枚で包まれた果肉は滑らかなかたちを保ったままで発酵していた ナイフを差し込むと紅い皮の間から膿のように変色した実が溢れ出し 食べられたものではなかった 熟れどき を見極めるのは難しい 少しだけ残った白い実を舐めるように噛むと 眩暈をおこすような甘い香りが鼻を突き抜け 舌が痺れた

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満月が近づいている 光が明るさを増すたびに眠気は酷くなり 温かな泥濘にはまるように眠気は激しくなる それは春の湿地帯で まだ虫はいない 花の香りはほんの少しだけ漂うような世界 誰も知らない場所に

 

初潮のあったときのことをわたしはよく憶えていて それは喜びではなく 屈辱であった 馬鹿な子供であったために 下着を汚したその赤黒い大量の血液が何を意味するかわからなかったのだ このことは仕事から帰宅した母を大いに失望させた わたしは下腹部の痛みと 身体の変化に対する恐怖に泣いた 自分の身体が女であることを思い知らされたのだ 10歳のとき というのが 早かったのか遅かったのかわからないけれど 教育は済まされていたはずだった 適切であったかどうかは別にして

泣きながら洗面所を占領していた私を引っ張り出した母は うんざりした顔で生理用品の使い方を伝え 下着の洗い方 血液が落ちなくなるから水を使うことや どの漂白剤に漬けるかを指導した 赤飯は次の日の夕餉の食卓に並んだ

未だに赤飯を見るたびにその夜のことが思い出される そしてその苦痛は未だに続いているのだった

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バレエシューズはもう何足か買ったことがあり 何足か踵が擦り切れるまで履いてつぶした もちろん踊るためのものではく フラットシューズとしてのそれである 仏蘭西の有名なブランドではバレリーナシューズの名前で売られているが そうでなくても履いてもちろん構わない そしてダンサーに憧れはしたものの そのような機会にも肉体にも恵まれることはなかった

 

サブリナ・パンツを履いても 髪を短く切っても どれだけウエストを細く絞っても オードリー・ヘプバーンにはなれない バレリーナシューズを履いてもプリマ・ドンナにはなれない でもそんなことはどうだっていいわけで ただ 走りやすくて可愛らしい ぴかぴか光るエナメルのフラットシューズ 甲の部分についたちいさなリボンが好きなだけ だけど甲の薄いわたしの足には合わない すぐに脱げてしまうから 

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不思議な色の果物を買った 臙脂色の洋梨なのだけど レジで支払いの順になったとき 店員の女ときたら きょとんとした顔で けれど僕にもそれが何かわからなくて 多分洋梨だと思いますと答えた 僕はいったい何を買ってしまったんだろう?

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私たちのこと誰も知らない街へ行きたいね なんて どうだっていいんだけどさ 初めから楽園なんて無かったわけだし ねぇ

 

あと数日のうちに君はまた何処かの海へ行ってしまう けれどもわたしは港へ行かない 旅券は間もなく有効期限が切れて使えなくなるし そもそも理由も当てもなく旅立つには少し歳を取りすぎてしまった 海のなかの国境線では 潜水服を着た国境警備隊が鋭い銛を握りしめ 足ひれを揺らしながら泳いでるらしい それって本当かな 確かめてきてよ 天国に一番近いところで

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物憂げな表情で遠くを眺める女が着ている白いカットソーは 滑らかな身体のラインを描き タイトスカートを履いたヒップへと続く 限りなく透明な色に見える肌色のストッキングで包まれた脚は黒いスムースレザーのハイヒールを履き 凛と佇むが その踵にはわずかな隙間が出来ている 爪先が痛むのだろう 時折片足の重心を変えているのがわかる 足に合わない靴を履かなければならないことほど 憂鬱な苦痛ときたら!