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新しい靴をおろさなかった 今日も雨だ 眠気はぬかるみ 爪先から頭までどっぷりと沈んでゆく 黒いブーツは冬の終わりに修理に出したので大丈夫 寒気に鼻の頭を赤くしながらあてもなく歩くことも出来る ホットワインを作って魔法瓶に入れたら シナモンパンをおやつに包んで またスケートに行こうね

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冬が来るのが怖い 暗くなるのが辛い 今よりずっと若かった頃には 夜が明けて朝が来るのが恐ろしかったけれど いまでは日照時間が短くなるほうが苦手だ 太陽が西に傾きかけたので慌てて庭の掃除を終え 時計を見るとまだ14時 それでも北の果てでは夕暮れが近い 紅葉した楓はとても綺麗だけど それよりも夏の公園でアイスクリームを買って食べるほうがずっと好き でも冬も寒さに震えて歯をかちかち鳴らしながら食べる

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その日の朝 わたしは心の底から安堵していた もうあのろくでなしのクラブに入るための伝説をつくる必要が無くなったこと 仲間入り出来る資格を失ったこと ずっと聴こえていたジムノペディがぼやけたようなメロディは高い金属音に変わった 耳鳴りがするようになったのだ (これは治るのに一週間かかった)

 

彼とはもう一生会うことがないだろうと思っていたので その一年後に再び口付けを交わし 祝福を与えてくれるなど予想だにしなかったのだが 実際わたしたちはふたりともKの年齢を越えて尚も生き続けている 夭折した詩人すべてが神話になれない時代において 正しい判断をしたと思う なにせ可能性だけはあるのだ 死人に口なし 遺された言葉を拾う者がいるかどうかなど知る由もない いや自らの知らぬところでその功績あるいは功罪を評価されることを良しとすべきではなかろう

 

雪のなかでも河は流れ 木々は春 芽吹く

しぶとく生きろよ

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わたしのなまえをただしく呼んでほしい それがなにであるか既にご存知のはず まだ憶えているならば

 

ケルキパの山に初めて雪が降り その寒気が麓にまで届いたような寒い夜だった あなたは長い黒髪を頭頂部で束ねて まるでサムライのようだった 若さは単純に美しく 未来は闇の中で煌めく

 

温かい腕のなかに身を委ねることは とても心地よかった 何処までも果てしなく沈んでゆくように 安寧そのものだった

あなたは額に口付けをして 女に新しい名前を与えた そして それこそが本当の名前だった

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あたらしい言葉をいくつ覚えても わたしは誰にもなれないし あなたと愛しあうことだってない 同じ時代 同じ国に生まれて 同じ空の下に育ったのに 一度も理解しあうことが出来なかった ふたりの意識 氷が溶けた北極 密林になった砂漠 決して交じり合うことがない肉体のように わたしたちの間は轟々と激しい音を立てる流れで断たれている しかしその流れとなる日はいつか来るのだ あらゆる苦痛や欲望から流れたその果てで

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封筒の隙間からこぼれ落ちたのは白い砂だった 灼熱の太陽の陽射しを浴び 群青の波にもまれ ときに海藻と絡みあいながら運ばれた 砂 ではなくちいさな生き物の殻は 今ではもう拾い尽くされてしまったとか まだ秘密の場所にはあるとか 遠い南の島のおとぎ話を聞くような気持ちで手紙を読んだ あなたが何処にいようとも光が溢れていますように

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物事の忘れかた 秋は足音を無くして 木枯らしに吹かれるがまま失踪した 眼を開けているのがやっとの眠気に抗いながら この先もう死んだひとには会うことがないのだと 当たり前のことを考える でも本当にそうなのかな

薄い膜一枚で隔たれた肉体の脆弱性 決して解け合うことがない世界で 互いの理想だけが暴力的なほど激しく精神を蝕んでゆく 不条理が尋常になった夜が明けるとき あなたを見つけ出せるだろうか 正しいことなんか知らないのに

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しばらく会えなくなるからと 別れ際に花をもらったので部屋に飾った 黄緑色の鉄砲のような蕾が5つもついていて そのうち2つは今朝方開き 真っ白な花が強い芳香を放っている 雄蕊から茶色い花粉が落ちないように咲いたはしから全部取ってしまったので花弁の中心に授粉することのない雌しべだけが 透明な粘液を潤ませながら残った