1025

ホフヌンクの駅へ切符を買いに行った 最果ての村 もう誰も暮らしてはいない奥地にある駅を目指すために

知らない土地がとてもたくさんあり 恐らく一生に一度も訪れることがないどころか 知ることすら無い場所があることは当然だけど そのことを自覚しながら生きるのは 考えずにいるよりも良いような気がする 期待することが幸せならば

1024

「愛しすぎたなんてことはないけれど そんな気持ちになることはもう二度とないと思うの」そう言って彼女は笑った 少しも面白くなかったけれど 僕も曖昧に微笑みかえした

彼女は彼のことをほとんど知らない

彼の生まれや育ち 学歴 交友関係 むかしの恋人たちといかに手酷く別れたかなんてものは知っているけれど 本質的になにもわかってはいない だからこそ盲目的に愛せるのだと思う まるでこの世には実在しないかのように 空想の世界だけで生きるように

1023

杏の木を伐った 鋸で手首くらいの太さがある枝を落としながら樅木を買いに行ったときのことを思い出していた 生協の店で注文してあったのを車で取りに行き 帰りに中華料理店で名前を知らない赤っぽい煮込み料理のようなものを買って帰った 酢豚ではなかったと思う 家について 飾りつけをしていたら 誰かが写真を撮っていたのだけど あとから見るとその日のわたしときたら少しも笑っていなくて ああ 楽しかったはずなのに まるで表情がなかった 冬のせいだ

1022

初めて異様な視線に気づいたのは二十歳になるかそこらの頃だった 舐めるようではなく 突き刺すように ほとんど悪意を感じる強い視線だ 実際に彼がわたしを憎んでいたかは知らない たったいま会ったばかりの見ず知らずの他人同士で もし恨まれるようなことをしていたとしたらわからないけど 最後の一点になったケーキを目の前で取るとか 何度もATMの操作を誤って手間取って後ろにひどい行列を作っているとか そんなことくらいしか浮かばないし わたしが彼の父親の愛人に瓜二つだったとしても そんな風に睨まれる筋合いはない そして愛人だっていない

時折 そのような視線を浴びる 何かやらかしたのか不安になるし 迷惑をかけていたなら申し訳ないけれど もし顔になにか付いていたら教えてほしいと思う

1021

引き裂かれた白い腹から溢れ出す魚卵 また魚卵  艶々と滑りながらまな板のうえにひろがってゆく 魚はもう動いてはいない

 

乾いた唇から血が滲むのは十二月 あのひとの前歯は少しだけ出ているから 笑うと唇が切れて白い歯に血がつくのを わたしは教えなかった 別にそれで嫌いになんかならなかったし 別に今も嫌いじゃない 好きでもないけど

 

刈り取られた畑を焼くときの煙にはなりたくない

1020

 破綻するはずの関係性を無理矢理維持し続けたら いつか強い絆が生まれるのか 皺寄せが来るのかわからない わたしは呪う あらゆる形式を重視した無感動な愛を 義務的に強制された望まれない愛を

 

尊び 妄信的に崇拝することのほうが清らかである矛盾 あるいは清らかさなど不要である

 

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1019

よく開けた山道を走っていた なんとかスカイラインという名前がありそうな景色の良いところで 樹々は紅葉し 赤や黄色の葉のグラデーションを 常緑樹の濃い緑がその鮮やかさを引き立てていた 白い霞がところどころに漂うとまるで空の上にいるかのよう ここいらの山道をくだると例外なく古いモーテルがある もしかしたら何処の麓にもあるのかもしれない しかも新しくはない そういうよくある道だった

1017

届かなかった手紙と 忘れた集合場所で 会わなかったのは それが正しかったから でも誰が決めたんだろう?

いつまでも純粋で穢れがないと信じたいだけなら電波が入らない山小屋から出ない方がいい 誰かが特別とか自分とは違うとか 半分正解で半分理想みたいなもんだし 救世主はもう帰って寝てる 

1016

斜交いの家の女が死んだ ゆうべ家のものにおやすみと言って眠りについてから そのまま布団のなかで息絶えていたという 駆けつけた警察官とお医者さまはその安らかな しかし血の気ない表情に驚いたそうだが 彼女のほんとうの名前や年齢を知るものが誰もいないほど高齢だった というのも死亡を報せに役場へ行った孫が 祖母の名を伝えたとき そんな名前の女はいないと言われて初めて知ったらしい つまり彼女は生まれたときに与えられたのと違う名前で生きた時間のほうが遥かに長かったということだ それが幸か不幸かであるかなど さして問題でもないのだけど