1014

背の高いダンディなシニア という言葉を体現したような人だった 半年ほど一緒に働き 退職のときには色紙も書いたのに 名前はもはや思い出せない 妻とは早くに死に別れたと話していた しかし浮いた話を聞いたことがない 黒い革靴はいつでも必ずぴかぴかに磨か…

1013

私が着るなんて信じられないような色のコートを試着して まるで似合わないのに 店員は手放しに褒めた 今日は勤労感謝の日

1012

悩むより聞くことが出来るならすみやかに訊ねること 面倒でも手間を惜しまず確認すること 何も言わなかったことで後悔してもぐちぐち言わないこと スムーズな取引はきもちいい あとは何色のマトリョーシカを買うかが問題 予算の範囲内で

1011

久しぶりに訪れた店がまるで違う店になっていた 階数を間違えたのかと思って もう一度上がったり 降ったりしたけど 正しかった もうその店は無かった 確かにここ数年新しいものが入荷されず品揃えは悪くなる一方で足が遠ざかっていたのだけど いつでも気軽に…

1010

むかし 友達とふたりで白い壁沿いの道を歩いていたとき ふいに門扉が現れ (ふいに というのは本当はおかしい その壁も入口も少なくとも100年以上前からあるのだから) なかには銀杏並木と一面金色に光り輝く落ち葉で埋め尽くされた砂利道がひろがっていた 底…

1009

「僕は親が不仲だったんだ」夏に出会った男はそう言った わたしは河へ向かって石を投げた 丸くて平べったい石は水の上を2回跳ねてから沈んだ 「だから早く家を出て新しい家庭をつくりたかった」 夕焼けが家屋の間を沈んでゆく 少し風も出てきたようだ あた…

1008

食堂で昼ごはんを食べたあと そのまま図書室へ行き 宿題を片付けてしまった 一年前にはまるでわからなかったことが 今ではかなり理解できるようになったから あのひとがカフェで砂糖をたっぷりいれた珈琲を注文しているところを想像することだって出来るし …

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黄色いコートが欲しい どこにいてもすぐに見つけてもらえるカナリアイエローの綿ツイルで縫われた 膝丈のAラインでシームポケットがちゃんと左右についているの 釦はそう 丸い脚付きの木製がいい 襟は少し大きめの丸いかたちをしていたら素敵 きっとわたしに…

1006

臆病で物臭で そのうえ慾深いのだ このまま許されるはずなんてない 肝が据わっていると言われても 物事を深く考えていないだけで 覚悟なんてものはない まだ何もやらかしてないし やらかしたいこともない ただ気ままに生きているだけで ああ!それでも税金は…

1005

むかし まだわたしが産まれるまえのこと わたしの暮らす家に住む夫婦 つまり両親のことであるが 彼らは猫を飼っていた 白いふわふわした毛のチンチラだったと思う 父はその猫に当時流行していた異邦人の歌手と同じ名前をつけて それはもう文字通り猫可愛いが…

1004

新しい靴をおろさなかった 今日も雨だ 眠気はぬかるみ 爪先から頭までどっぷりと沈んでゆく 黒いブーツは冬の終わりに修理に出したので大丈夫 寒気に鼻の頭を赤くしながらあてもなく歩くことも出来る ホットワインを作って魔法瓶に入れたら シナモンパンをお…

1003

誕生日祝いのお菓子を買いに出かけた この時期に生まれた友人が多いのだ 蠍座だったと思う ひとの生まれた日を覚えてはいるくせに 当日すっかり忘れてしまうのが悪いところ 今年はなんとか大丈夫だったので 間に合うように届けること

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冬が来るのが怖い 暗くなるのが辛い 今よりずっと若かった頃には 夜が明けて朝が来るのが恐ろしかったけれど いまでは日照時間が短くなるほうが苦手だ 太陽が西に傾きかけたので慌てて庭の掃除を終え 時計を見るとまだ14時 それでも北の果てでは夕暮れが近い…

1001

その日の朝 わたしは心の底から安堵していた もうあのろくでなしのクラブに入るための伝説をつくる必要が無くなったこと 仲間入り出来る資格を失ったこと ずっと聴こえていたジムノペディがぼやけたようなメロディは高い金属音に変わった 耳鳴りがするように…

1000

わたしのなまえをただしく呼んでほしい それがなにであるか既にご存知のはず まだ憶えているならば ケルキパの山に初めて雪が降り その寒気が麓にまで届いたような寒い夜だった あなたは長い黒髪を頭頂部で束ねて まるでサムライのようだった 若さは単純に美…

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あたらしい言葉をいくつ覚えても わたしは誰にもなれないし あなたと愛しあうことだってない 同じ時代 同じ国に生まれて 同じ空の下に育ったのに 一度も理解しあうことが出来なかった ふたりの意識 氷が溶けた北極 密林になった砂漠 決して交じり合うことが…

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眠っても 目覚めても 孤独 しかしそうであることが不幸であるかは別の話なのでマニキュアを塗り直さねばならない

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封筒の隙間からこぼれ落ちたのは白い砂だった 灼熱の太陽の陽射しを浴び 群青の波にもまれ ときに海藻と絡みあいながら運ばれた 砂 ではなくちいさな生き物の殻は 今ではもう拾い尽くされてしまったとか まだ秘密の場所にはあるとか 遠い南の島のおとぎ話を…

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物事の忘れかた 秋は足音を無くして 木枯らしに吹かれるがまま失踪した 眼を開けているのがやっとの眠気に抗いながら この先もう死んだひとには会うことがないのだと 当たり前のことを考える でも本当にそうなのかな 薄い膜一枚で隔たれた肉体の脆弱性 決し…

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しばらく会えなくなるからと 別れ際に花をもらったので部屋に飾った 黄緑色の鉄砲のような蕾が5つもついていて そのうち2つは今朝方開き 真っ白な花が強い芳香を放っている 雄蕊から茶色い花粉が落ちないように咲いたはしから全部取ってしまったので花弁の…

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髪をあまり切らなかった 美容師の男は「年内にまた会えると良いですね」と言った 本当にもうそんな時期だった 年を迎える前にもう一度綺麗に揃えてもらえるように予定を立てるべきだろうそれから服屋へ新しいコートを見に行った カシミヤが混じっていると本…

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ニルゲンドヴォにて畑の隅で眠る 午後 枯れた枝についたまま 干からびた赤い木の実だけが色彩を憶えている

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労働のあとで買い物へ行った 千円のインナーと一万円のインナーが同じビルの中で売られているのは単にそれだけ色んな人が来るからなのだけど わたしはかなり場違いな格好をしていた つまり ぼろぼろのコートを着て 壊れた靴を履いて ふかふかの絨毯のうえを…

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自分のことくらい自分で蹴りをつけろよ 見ず知らずの他人に口を出されるのは嫌なくせに 身を任せるのはどうして 或いは目的は達成されたのだろうか 本当のことはいつでも夜のうちに流されてしまうのか

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わたしはもう死んだひとしか愛せない 解散した楽団が演奏していた曲の録音を繰り返し 解体された国の伝承を読みながら 誰も来ない停車場でひとを待ち続けている 空は遥か彼方で轟くが雪は音もなく降る そのことを教えてくれた伯父は七年前に死んだ 惨たらし…

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木枯らしが吹いたという 夏からずっと地下室で働いているので 街がどのように変化しているのか すこしも知らなかった もう冬なのか やけに眠いはずだ 太陽をもう何日も見ていないが 恐らく春までもうお目にかかることはないだろう

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本当に誰でも良かったのだろう 諦めることに慣れて譲れないものが無くなった 生活と身体に以外に守るものがない そして実はみんなそうだろうとさえ思っている 望めば願いは叶うだろうに なぜ望まないのかと言われても上手く返せない 必要としていないから つ…

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旧い友人 そう 懐かしい人たちに会った 私たちは確実に歳を取っていたが まだ誰も死んでいないどころか 子供が生まれている者もいた とても良いことだと思う 健やかに生きてゆけるということは

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ワンピースの取寄せを辞めて DVDの予約をすることにした 去年の冬に観た映画で 見終わったあとに正方形のかたちをした薄いパンフレットを買って すぐ手に取れる場所に置き 何度も読み返している まだ見ぬ 恐らく生涯訪れることのない遥かな国の森を夢想する…

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ある瞬間から突然来なくなる返信に なにも求めない むしろ泥沼に嵌らなかったことに安堵すべきなのだ わたしたちは二人ともとても良い役者だった 理性を保ちながら欲望に抗わず ひと時の官能に耽ることは難しくない ただ微妙な温度の調節が厄介で 同じ速さで…