1070

蒸発したはずの青年は金曜日の夜に見たのが最後だった 手を振って別れたあとの後姿はいたってふつうで 書置きと一緒に置かれた携帯電話は充電切れで電源が切れていたらしい その後 彼は元いた場所へと戻った 死んだのではなく二度とわたしたちの前へ姿を現さ…

1069

森へ行った 草がぼうぼうと茂る間に土と落ち葉で澱んだ泉があったのだけど 綺麗に刈り取られ 小洒落た白い鉄製のテーブルセットまで置かれて どこから運び込んだのか泉のほとりには小舟まで置いてある 森の主が手入れをして庭にしてしまったのだ 清く いつま…

1068

北国から小包 明るい水色の大きな箱で届いた なかには色とりどりのお菓子や きれいなカードなんかが宝箱のように詰められていて わたしの心は彼女と出会ったときの年齢に戻ったかのように弾んだ 舌が青くなるキャンディなんてもう長いこと舐めたこともないの…

1067

文章を書き写しては翻訳 それは選んだ言葉の羅列であり わたしの言葉ではない なるべく的確な単語を選び 行間を読みながら繋げただけの文章 わたしの世界にあるだけの 限られた 嘘

1066

初めてキスをした夜 雪が舞う鄙びた駅のホームで恋に落ちて以来 心は犬釘でしっかりと打ち付けられたレールのように動くこともない そのことをあのひとは知らないし 望んでもいない 暗闇のなかで目が覚めて 部屋に誰もいないことを確認した 二重硝子の窓はき…

1065

何事も為せないとしても構わない 早くこのときが過ぎ去りますように

1064

もう陽が昇って 明るくなった一月の街 とおりは静かに凍え 息を吐けば白く曇る あのひとは空の色が違うといった 今はもう何処にいるかも知らない世界で一番好きなひと 僕が暮らす街の空はさめざめと青い色をしているといった わたしはその空の色を知っている…

1063

大勢の会いたいひとがいて それを邪魔されるとか 拒まれるということはないのに すっかりダメになってしまったことを 許してなんて言えない 太陽の温度も眩しさも忘れてしまったみたいに 今は言葉すらうまく選べない

1062

中学生のころ 長い髪は黒か紺色のゴムで1つに束ねるか 二つに分けて三つ編みにしなさいと決められていて 今思えば大体みんな守っていた その頃はまだそのくらいしかヘアアレンジが無かったというわけでもないけど 仕事をするようになったら三つ編みにするの…

1061

あらゆる可能性に満ち溢れていた 希望は若さと共に なんの保証もなくただあった 戦争は起きなかったし 徴兵された恋人もいなかった 何かに反対した罪で牢屋に入れられることも 誰かと血が流れるほどの喧嘩をすることもなく 人生でもっとも美しいとされる年頃…

1060

冬は花が長くもつのがいい 冷えた薄暗い玄関で 光が射すわずかな時間 静寂のなかに佇む色彩を愛でる

1059

爪を切りながら もう長いこと色を塗っていないことに気づいた 料理をするようになってからだった それまでは大して気にもしていなかった 足の爪は何年も紅く染めるのが常だったけれど それもやめてしまった 最後に塗ったのは夏祭りの前だったと思う いや そ…

1058

あのひとが好きなあの子になりたい あの顔になれば好きって言ってもらえるかな どうせ中身のない存在 器だけでも綺麗になりたい あのひとが好きなあの子になりたい つくりものの笑顔 みんな知ってて絶対言わない秘密 でもそれでいい それでいいのよ

1057

むかし着ていた白い犬の絵が編み込まれた灰色のセーターのことを今でもしばしば思い出して とても気に入っていたのに写真の一枚もないことが悔やまれる お金がないときに赤十字の古着屋でチーズバーガーと同じ値段で買ったのだ それは大量生産の既製品ではな…

1056

見慣れた景色と頭痛 きっと目を閉じたままでも歩いて帰れる 全力疾走したときの胸の苦しさ 鼻の頭が痛む冷えた空気 大した距離でもないのに息が切れて 全然知らないひとが起こした事故のせいで なんとなくサボる言い訳が出来なくなった し そうする理由もな…

1055

ユーカリの枝を2本窓辺に飾っている 少し小ぶりの丸い葉が幾つもついていてとても可愛い なのにいつもオリーブと呼んでしまう あまり名前を呼ぶこともないのだけど

1054

薄暗くなりつつある部屋 日没の刻が近い けれども曇りでは知らぬ間に夜が来ている 吐く息は白くただよい 指先は赤くかじかむ 少し厚めのタイツで頸を括って締めると むかし部屋で騎乗位になり首を絞めた男のことを思い出して そのとき彼はわたしの首を締めは…

1053

想像すること 自分自身の経験から 先生が教えた教科書から 美しい女優が演じる映画から 分厚い歴史の資料から 週刊誌の噂から 思考出来る限界まで 思い巡らせる 国境も 時代もこえて 何事にも代えて守ろうとした生活のこと 愛する人との幸福な日々のこと 興…

1052

Bonne année 🎉 何がめでたいのか 新しい年を迎えることが出来たことに対してだろうかと思うと そうでもない人に対して悪い気がするので ハッピーニューイヤー というのはとても感じが佳い めでたくても そうでなくても 誰にでもやってくる新年がハッピーにな…

1051

鐘の音が聞こえ始めた そろそろ眠りたいと思うけれど 物心ついて以来 夢のなかで年越しの瞬間を迎えた試しがない そろそろ寝たっていいと思うのだけど 家人が蕎麦を楽しみにしているのでなんとかあと少し粘らねばならない ✴︎ ✴︎ ✴︎ 2017年も『ヴォトカ流れる…

1050

あなたの御心によって浄められた むせかえるような歓喜のうちに迎えたまどろみのまま あなたのもとへ逝けますように

1049

降りしきる雪があたりを白く埋め尽くし 屋根から落ちた雪で玄関がふさがった時 わたしたち兄妹は諦めることと 救いようのない絶望を思い知らされた なんという酷い年だったのだろう オイジェツが夏に出稼ぎへ行ってから戻らないまま冬が来て マトカは野良仕…

1048

ブラシが壊れたので新しいものを買った それにしてもブラシが壊れるなんてこと思いもよらなかったのだけど 実際に髪を整えていたら プラスチックか何かで出来たブラシ部分が土台から外れてしまって 以来まともに使えなくなってしまったのだ 新しいブラシは土…

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カナリアイエローの下着をオーダーしたのは シビルの水着がセパレートタイプのキイロであることを思い出したからだった マティーニをもう一杯飲みたい あの夜も あくる朝も 部屋にはそれぞれ違う男のひとがいて そのどちらとも寝なかった ある意味では彼らは…

1046

数日前から向かいの家で飼われている犬を見かけないと思っていたら 郵便受けに年内で期限が終わるスーパーのクーポンと一緒に 今月半ばに死んだということを書いた手紙が入っていた 小さいけれど大人しくてあまり吠えない犬だった そのせいかあまり印象に残…

1045

透き通ったガラスと銀で出来た首飾りをもらった わたしには銀色があまり似合わないと思うのだけど 紺色のケースのなかでそれは星屑のように煌めき とても素敵に見える むかしは指輪や耳飾りもよくつけたものだけど 最近はめっきり飾らなくなってしまった 貴…

1044

街中を彩る何十万個もの電飾よりも 空へ手を出して伸ばすように枝がひろがったミツマタの木々は 落葉樹の森の中でも極めて美しかった 寂寥の季節 立ったまま眠るように伸びた木立 蔓だけが残った葛 夏には覆い茂る草木で隠れていた社 河の色は翡翠色に澄み渡…

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椅子から下ろした足の踵が床につかない時から珈琲を飲むのが好きだ 砂糖を入れるなら飲んではいけないと言われたので 大人の真似をしてブラックにするか たっぷり牛乳を入れて飲んでいて今も変わらない 味について特にこだわりはないけれど 唯一好きで買う豆…

1042

愛するひととどうしても結ばれないとしたならば そのひとの幸せを願うより 他に為すことはありません 一緒に生きてゆかれなくとも どうか さいわいであれと心をこめて 春には雲雀のうたごえに夏には冷たいわきみずに秋には木々のこもれびに冬には煌めくほし…

1041

わたしはとても疲れている 神経は尖ったサボテンの棘のように細くて 折れやすく過敏になり 事あるごとに自分自身に突き刺さっている 思うようにならないのは仕方がない 打つ手を考えねばならないだろう 遅いとしても 試さないよりはマシだ