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ヴォトカ流れる河のほとりで

Das Tagebuch der Lily Mercury

832

胸にちいさな金属を埋めている チタン製の土台についているのは金色の縁で囲まれた透明のガラスだが 光があたると金剛石のようにきらりと輝く 孔をあけて一番最初に見せたのは 一番好きなひとだった 会って一番に耳を確認して なにもついていないことに気づ…

831

思いがけず瓶を開けたら煙が上がったので わたしはカティ・サークのように揺れている 空を見上げれば水夫は汽笛を鳴らして 帆は風を受けて力強く張られていた 白鯨がいない海で何を目指せばいいのだろう 透きとおった細いグラスが光を受けて煌めく あなたは…

830

庭に毒草ばかり植えていた女のことを 魔女だと思っていたのだが 林檎を喉に詰めて死んだのだった 鈴蘭と狐の手袋が咲く庭の 畑に実る苺を誰も盗みにやって来ない 魔女ではなかった女の娘が育てた苺は歪なかたちをしている

829

甘い水で濡れたあのひとの唇は薄くて軽い思い出すのは骨ばった手の長い指とか ピアノを弾くように叩くキーボードの音とか たいしたことじゃない 大体もう顔もあまり覚えていない そういえばどんな声で喋るんだっけ 翻訳した日本語みたいな会話をしたね もっ…

828

愛情表現が苦手な男だった 言葉にするなどもってのほかで 顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしていた わたしが傷つけられたのを知ったときに 相手を殺したいほど憎いと怒ったと人伝に聞いたことくらい 頭を撫でられたり 抱きしめられたりすることはなかった こ…

827

生まれたばかりの まだ生きることしか知らない子供たちを 後先も考えずに殺していった 禁猟区で 男たちは笑いながら 死んだ子供たちを籠に入れて街へ売りにゆくのだ 生け捕りにされた子供は 濁ったぬるい水のなかで弱り じきに力尽きてゆく やがて沈黙の春が…

826

『弱さを楯に嘘で固めた要塞に暮す生活はどうだい 僕にはもう身体以外何もないのだけれど 季節さえ良ければ悪くはないものだよ 太陽と共に生きていくということは ある意味では君らの大好きな自然豊かな生活というものだし 夜になれば好きなだけ流れ星を探す…

825

普通のセックスという幻想 18歳のときが初めてだった 処女懐胎をしなかったのは聖母として選ばれなかったということ 痛みについてはよく憶えている どうして出血には熱を伴うのだろう? 挿入 裂傷 破瓜 摩擦 摩擦 そして摩擦 泣き叫ぶわたしの口を抑えながら…

824

館を出た日から義父の顔を一度も見ていない 戻ってきたら よく知らないけれど何処かへ行ってしまったようだ することもないので 夫の拳銃と靴を磨いていたが それもすべてぴかぴかになってしまった だからもう何もすることがない 上着には蒸気アイロンがかけ…

823

生きることの意味は見つけたような気がするけど 価値まではわからない 存在するに値するほどの値打ちはない けれど価値が無くとも愛しいものはあるので それで好いんだ

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まだ明るい帰り道の草木の鮮やかさ 水を張った田園には空が映り 夕陽を煌めかせながら波打つ 畦道に咲いた綺麗な花の名前を知らないまま大人になって 一度も困ったことはない 灰汁が強すぎて食べるのには適してはいないと聞いているくらい 蛙なら鳴き声で大…

821

通り過ぎていった一瞬の 事実が生成されるまでの長い 長い時間が 弾ける泡みたいな 溶けてった雪みたいな なにか 手紙を書かなかった 今日も 明日も書かないだろう宛名の無い手紙が重なるのと 何も重ならないことと 泡を作ることと 雪を降らせること インク…

820

乾いてしまった絵の具 二層に分離した液体 固まって蓋が開かない瓶 脚のもげた蝶 蝶番が壊れた木箱は昔 ケルキパ共和国で暮らす友人のMがくれたもので 明るい色の光が塗られている 開けるのは簡単だけど 閉める時が少し難しい ちょっとだけ左右にずらして ネ…

819

保障された身分と引き換えにされた時間 千円札で巻いた命の細切れ 血みどろソース仕立て 作っては食べ 食べては吐くだけの繰り返し あなたの鼻血と わたしの胃液が ひびがはいったボウルのなかで混じり合う 白くて脆い器なかで泡立ちながら わたしたちは両手…

818

黄色い砂はまだ若い砂 赤い砂は眩暈を起こして 黒い砂は眠っている 身体を動かすのがつらいが 遠くで鐘の音がなり合唱が始まった 祈祷の言葉を唱えているのだが 言葉がわからない自分には歌のように聴こえる 通訳をしてくれた娘によると 何千年も昔に高名な…

817

汗ばんだ肌は永遠に乾くことがないかのように蒸し暑く湿っている 土で塗られた壁は冷たいが しばらく触れていれば体温がうつってしまう とにかく暑いのだ ここでは日が暮れるまで外に出る者はいない どれだけ格子の向こうで揺れるブーゲンビリアが涼しげに揺…

816

病めるときも 健やかなるときも あなたはいないから わたしはいつもと同じように祈ることが出来る 変わらない気持ちで あなたを愛す

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靴を売った 酷く傷んでいたので ほとんど値段はつかなかったのは仕方がない 随分前に古着屋で買ったとき 既に傷だらけだったのが 今度こそ本当にぼろぼろになってしまった 或いは捨てるべきだったのだけど 長年履いた靴を一体どのように処分すべきかわからな…

814

ツツジの植えられた花壇の傍を通りながら 「子供の頃よく蜜を吸ったわ」と彼女は懐かしそうに言った 「今も吸いたい?」立ち止まって濃いピンク色の花弁を摘むと 雌蕊や雄蕊を残してつるりと抜けた 根元に触れると透明な糸が つぅとひいた 「駄目よ 勝手に千…

813

まだK市に彼のアパルトマンがあった最後の初夏 群青色のドイツ車 薄荷煙草とワインの夜 名前を忘れてしまった映画とローストビーフ 激しい行為のあとで 彼はわたしをベッドに縄で縛りつけたまま眠ってしまった 無茶苦茶だった ふたりともお互いのことをこれ…

812

寂しさを理由にひとの気持ちを利用するなよ あらゆる想像力の欠如という暴力 失って初めて後悔するのは当然のことだけど そうなることを予測することは出来たはずなのに 激しい興奮の内に忘れてしまうのか 治った傷の痛みを永遠には憶えていられないように

811

音楽は苦手だけど好きだ 大きな声で歌えば褒められるころまでは良かったけど 楽譜が読めなくて 覚えるのも出来なくなってから てんで駄目になった 三角比の定理や 物質の熱量について結局理解することはなかったみたいに 16ビートが何か未だにわかっていない…

810

砂利道をゆっくりと歩いた 昼下がり 風がすこし強い そういえば今年は春一番を聞かないうちに季節が変わっていたんだ 木枯らしのことも知らなかった 知らない間に年が明けていたんだった 声を聴きたい そう思うけれど なにも話すことがない 聞きたいこともな…

809

白いライラックにはとても悲しい伝承があるので この花が5cmくらいの冬に咲くオレンジ色の花だったら良かったのにと思う でも一体 ベンジーはどんな花を想像していたんだろう 街角に咲くリラ 降り注ぐ光と芳香 5月の風 誰もいない目抜き通り 安寧のなかにた…

808

出来レースの勝敗に先生は狼狽していた 安心していいよ 私たち3人とも留年間違いないから 当分ここにいるよ 心配しないで 副委員長は聞きたいことなんかないのに とにかくなにか質問しなくてはいけないと思っているから 見当違いなことを言って途中から聞か…

807

好きなひとの為ならどんな苦痛でも耐えられるということ 苦痛に耐える自分自身が好きということ 苦痛を味わうのが好きということ 被虐趣味の性癖は様々な要因があるけれど 自分以外のために苦痛を選ぶのは悲しいことだと思う 加虐する人たちが求めているのが…

806

髪を染めたり ピアスをつけたりして 同僚を誘惑しないようにと言われたのは 単なる忠告ではなく ある意味では侮辱であるが わたし以外のひとが許可されている点を考慮すれば 特別に魅力があったというふうに考えたならば優越でもある けれどもし髪を染めるな…

805

とてもたくさん歩いた気がするけれど 歩数計を見たら6,000歩ちょうどだった 歩くのは好きだ ひとりで川沿いをゆくのも好きだけど 好きなひとと一緒にあてもなく手を繋いで歩くのはもっと好き どこまでも陽が沈むまで道が続く限り そうして歩き疲れて公園のベ…

804

今すぐにでも外に出るべきなのだと思う 駄目になってしまう前に でももう手遅れだ 電車に間に合わなかったから 毎日とても眠い どれだけ眠ってもまだ 身体が浮いているみたいだ なにもすることがない しなければならないことはあるけれど

803

深く考えるべきでないこと 悩んでも仕方ないことに 諦める以外の答えが知りたい とにかくがむしゃらに生きるしかない なんて 安いりぼんを飾るのはやめて

802

目の周りが乾いたように感じる そうだ さっき少し泣いたんだ 水曜日 そうだ 今日はまだ週半ばだった あまりに多くの出来事が起きて まだ混乱が続いている むかし働いていた住宅販売会社では契約が水に流れると言って水曜日が休みだった 流れるように生きるよ…

801

綺麗な水を手に入れるためにひとは深い井戸を掘らねばならないが 普通の生活を送るためには 普通の人間にならねばならない 抜きん出ても 埋もれていてもいけない 人並みになることの難しさ 苦痛ばかりが土壌に染み込んでゆく ここらの土地はもう駄目だ 恥辱…

800

どうして水槽の水はいつも青緑色に透けるのだろう 鋭利な刃物のように尖ったヒレが水面を切り裂き 無数のあぶくを噴き出させる 突風が吹き付けて花を一斉に散らすように あぶくは煌めく 人工海水で満たされた海は 驚くほど精巧につくられていて わたしにはも…

799

名前を忘れた植物の 効能だけを覚えていたり 台詞を忘れたまま動いたりして 満点が取れない 花壇が開いていたので 花でも買ってこようと家人に相談したら おまえ そこには球根を植えたと言ったじゃないかと笑われ 確かになにか埋めたし 咲いたのだった 思っ…

798

窓から見える銀杏の木に芽吹いたちいさな ちいさな葉が ちゃんと銀杏のかたちをしていて それは 街をゆくひとびとの髪型や服装がどれだけ変わっても 新しい生活を始めたばかりの若者たちが見せる初々しい表情が変わらないのと似ている

797

知らない街の ややこしい綴りの名前がついた石畳の通りを 颯爽と歩いている彼とは まだ会ったことがない たぶん左の肩甲骨のあたりに青い鳥の絵が飛んでいて 煙草はゴロワーズの赤い箱 ラムよりもコニャックが好きだけど 牛乳も好きだからとても背が高くなっ…

796

焼いた肉を食べさせてくれるというので食べに行った ナイフで細かい切れ目を入れて柔らかくした 何かよくわからない赤い肉は 味がついていて 網の上でよく燃えた 焼けるというよりは燃えたのだった むかし 奮発して精肉店で一番高級な牛肉を買おうと意気込ん…

795

わたしの知らない世界 マティーニグラスのなかで水浴びをして スワロフスキーのシャンデリアの下で身につけるのは化繊じゃない本物のシルクだけ パーティは人目につかない地下ではなく 夜景が見える高層ビルの最上階で行われていて 何人もの女たちが薄くて軽…

794

久々に葡萄酒を買った 飲むのは蒸留酒ばかりなので 料理に使うため 魚介の酒蒸しが好きなのだ 日本酒のそれも好きだけど 柔らかい白身の肉なら 白葡萄酒が良いと思う 別々に食べてももちろん美味しいけれど そういえば エスカルゴの缶詰を見なくなってしまい…

793

毒という字と妻は似ているけれど ゴケグモの名前は咬まれるとその毒で死に至り 後家を迎えることになるというのが俗説にある でも実際は英名の Widow spider をただ和訳しただけ 交尾後に雄を食べて未亡人の蜘蛛になっちゃうからだって 悲しい 何年か前 男や…

792

裏庭に杏の花が咲いていた 白い雪のようだが 若葉も一緒に芽吹いているので爽やかな色合いをしている 実ったことはまだない 一本しかないから 受粉のしようがないのだったさて 蜂蜜が冬に結晶化したまま 一向に溶ける様子を見せない 白くて固いバターのよう…

791

理由があってスープに入った肉を食べられないというので 代わりに食べて 僕のデザートに添えられたメロンをあげた これも理由があって食べられないのだけど 彼女は嬉しそうに 一番にメロンを食べて 間に苺 キウイ 生クリームのついたプリンを食べて 最後にも…

790

北方のケルキパ共和国では 春に咲く喇叭のような花被片がついた黄色や白色の花 そう細い葉が根もとからすらすらと伸びるあの花のことを 『復活祭の百合』と呼んでいた 移動祝日なので 咲いていない年もあったけれど 大体この時期には咲きはじめている 外はま…

789

服も口紅もしっくり来なかったのでそれはわたしの色ではなかった 毎日見ている顔なのだから似合わない色くらいわかる ただ機会があれば試すのは大切なことだ 思いがけず似合うことだってあるのだから 知らない間に味覚が変わるみたいに 結局 食料品店で生魚…

788

山際の村は彼方此方が桜色 わたしは花が散ったはしから 伸びてゆく青々とした若葉が好き 穀倉地帯が一面緑になるのも嬉しい 夜がどんどん短くなって 光が世界に溢れる季節はなんて健やかなんだろう

787

くだらないことは日記に書けばいいので ここにはくだらないことしかない 本当のことを書けば愚痴なるから書きたくない いらいらするのはPMSだけど 高層マンションの非常階段を見ても「あそこから落ちたら死ねそう!」とは言わなくなったし 恋人に当たり散ら…

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復活祭の飾り付けをしようと思ったのに あのカラフルな羽根がもうどこにも売っていない 仕方がないので 家にあった餅をこねてつけることにした 紅も混ぜて 白いのと互い違いにつけたら 正月飾りになった ウサギの形をしたチョコレートを手にした子供「どうし…

785

愛されることは難しいけど 愛することは出来る 或いは愛されていることが前提であるので 信じていれば その存在を心の何処かにおいておけば きっと安らかに眠ることが出来るだろう 闇の中で目を覚まし震えることもなく 遠い山並みから朝陽がのぼり 空が白ん…

784

透明のビニル傘に花弁がくっついて ちいさな模様が出来ているのは綺麗だと思う 霧のような雨には 花の色がうつり ロゼ・アンペリアルの雫のように輝いている 草の上で私たちは春の訪れに祝杯を捧げた

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フランス語の辞書を買ったので 目についたフランス語っぽい単語を調べるようにしている 可愛い雑貨屋さんの柔らかなビニール袋に書かれていたのは 日本語と同じ意味の花の名前だった そのしたに書かれた mon jardin secret という言葉 わたしの秘密 どんな秘…