Fiktion

864

長すぎるワンピースを買った ぎりぎり踝が見えるくらい長い黒のジャージー素材 どうしたって長すぎるけどいいんだ 夏が来ることが 季節がきちんと巡ることが嬉しい 雨は少なすぎたけど

863

近くで見たあのひとの眼が 細い二重瞼だったのを初めて知った もう会えなくても また何処かで会っても どちらでもいいね 友達じゃないし 兄妹でもないけど 少しだけ特別だった なにが ということもないけれど 少しだけわたしの神様と似ていて でも全然ちがっ…

862

彼女が死んだのは新月の朝だった それは きっと 彼女が何処かであたらしく生まれたということ やり直すことが出来たということ 死は結果ではないというふうに考えるほかにどうしようもなかった 事実死は結果ではないのだ 彼女の生きた30余年の日々のうえにた…

861

ニルゲンドヴォへゆく 雨はまだ降らない 覆い茂る草木を男は鎌でばさばさと刈り取り わたしはそのあとを 地面になぎ倒された枯草とまだ青い草のうえを 踏み締めるように歩き 河辺へ向かった 乾いた枯葉は去年の夏の蒼さだった せせらぎを流れる雪どけは色彩…

859

注文したタンクトップを引取りにゆくこと 机のうえを片付けること 誕生日カードを送ってしまうこと いつが誕生日か忘れてしまったんだけど とにかくそうすること クリーニングから戻ってきたコートのビニールを外して仕舞うこと 夜22時には布団に入って寝る…

858

夏至の日 朝露が集められない東洋の魔女たちは 低気圧にやられて布団のなか 昼も夜もない 雨に濡れた花を集めても 夢枕に立つのは死んだひとばかり 透明になった彼が生きてるときには口づけだって交わしたことはなかったのに

857

甘い香りの女の肌は陶器で出来ているので その声も空洞の壺のなかで響くように高い 壺は朝 満たされる 夜に乾いてしまうのは至極当然のことだ 油で磨かれた手脚はしなやかに動き 心臓は適切な速度で脈を打つ 誰かに教えられたわけではなく 予め設定されてい…

856

時計を身につけなくなったのはいつからだったのだろう ハイスクールへ通いだしたときには 薄い水色をした文字盤のを持っていたし お仕事のときは濃い紺色の文字盤で12と6のところにダイヤモンドがついた銀色のをつけていたのに 多分電池が切れてそのままにし…

855

雨が降らない梅雨 低くなった気圧の底みたいな日曜日はなんにも出来ない どんどん腐ってゆく生卵みたいに 止めることも出来ない時間 乾かない洗濯物 iPhoneに向かって天気を尋ねる あのひとのいる国の言葉で わたしの暮らす街の天気を確認することの愚かさ …

854

花の名前を知らなくても 電子レンジ以外の調理機器が使えなくても 雑誌以外の本を読んだことがなくても アルファベットのWとVが区別できなくても 泳ぐことも 踊ることも出来なくても あの子は全然問題無いらしい それを狡いと妬むか 気の毒に思うか好きにし…

853

薄く切った丸いシトロンを浮かべたコークが飲みたい それにラムをほんの少し垂らして夕陽が沈むのを見届けるから 逢魔時でも怖くない 連続殺人犯と同じ名前の女は テレビで見た犯人より背が低くて ふっくらとした手とお腹を持っていた そしてとても歌が上手…

852

夏が近づくたびに新しい水着が欲しくなる 毎年少しずつ流行は変わるから でも花柄の三角ビキニ これさえあれば安心 世界中どこのビーチでも絶対に可愛いから アンダーは紐で結ばなくていいやつ わたしはちゃんと泳ぎたいから濡れて張り付くスカートも ほどけ…

851

時折自分の声が他人のそれに聞こえる 正しく発声出来ているのか確認すると 彼は「問題ない」と答えた でも違和感があるの と続けようとしたが その台詞すら予め用意されたもののように感じられたので わたしは話すことをやめた 自然光が差し込む部屋が舞台だ…

849

わたしは流れている 流されるのではなく 自ら流れている 水ではない 浮かぶ木の葉やあぶくでもない 流れているもの自体がわたしだ 時折とても強い力を感じる それは重力 あるいは引力のように当たり前に存在し 疑うこともない力だ 或いはそれが運命なのだろ…

848

鳴り続けるアラームを誰も止めない 部屋のなかには行ったりきたりする白い服の女と 入れ替わり立ち替わりする知らない顔の連続で 木々の間で輝いていた光は知らぬ間に消えてゆく 夜は薄い麻の帳のように落ちて 窓ガラスに反射した蛍光灯がやけに白く映ってい…

847

今年初めての向日葵を買った 昨夜の満月のように黄色く 長い茎はしなやかで瑞々しい 旧い友達が近々こちらへ越してきて暮らすらしい わたしたちの母国語をこどもたちへ教えるという それはなんとなく不思議な感じがする かつては私たちふたりとも 別の国でそ…

846

古い手紙を読みながら 誰も不幸にしなくて済んだことを喜び 救いようのない愛の言葉を それでも愛しく想う 冬だったか 夏だったのか 夜の駅で抱きしめたいという彼の申出を拒んだことは 間違ってはいなかった 後戻り出来ないほどの烈しさで身を焦がすには早…

845

通り過ぎていった季節の変わり目に立ち止まることを決めたひとの 瞳の色も髪の色も 海の色だった 6月の砂浜に散らばった白い骨が波にのまれてゆく 満月がどれだけあたりを照らしても 真昼にはなれないことを嘆く必要などないのに

844

青い布は乙女が兄弟の呪いを解くために編むベスト あるいは少年が手作りした服 どのようにして青く染めたのか思い出せないけど あの絵本がとても好きだった 青い表紙 横長の本 羊飼いの少年の髪は黄色く塗られていて それは柔らかな天使の金髪 大抵どの国も …

843

言われた通りに動くのも 言われたことを聞かずに文句だけ言うのも どちらも変化をもたらさない 何を言ってもにこにこしているあの人は それは毒だと怒っても 同じ茸を拾ってくる でも本当はわかっていてわざとしてるだけということを誰もが知っていて やっぱ…

842

ローズマリーがメデューサの寝癖頭みたいに茂るので短く刈り込んだ 収穫はいつでも使いたい時になんて そうそう使うこともないわけで 大体夏前に軽くしている 妖精の涙で濡れた草で編んだリースは魔力が強い 6月の庭でわたしは妖精たちに折檻をして泣かす そ…

841

近頃わたしはとても疲れてしまった 気のせいか白髪も増えたし 目尻の皺も目立つ 疲れたなんて言いたくないのに 身体が言うことをきかなくてはどうにもならない 海に行きたい 今はまだ泳ぐには適切な時期ではないし たとえ可能だとしても気力がない けれど波…

839

白い清潔な部屋のなかで 今際の際にいるのが自らだと想像してみる 別に砂埃の舞う路上でも 虹色の油がにぶく輝く波が押し寄せるごみだらけの海岸でもいい とにかく死にかけているところを 想像してみる それは単純なことであるのに 容易くはない 独りで死ん…

838

切り離された内臓の柔らかさ ついさっきまで皮膚と肉と骨のしたにあったというのに 赤くなった生理用食塩水のなかに浮かぶ冷たい塊になった 6月が始まる 夜の森では鷺がぎゃあぎゃあと鳴き叫び 狼が吠えている 闇のなかで抗うことが出来るからもう肺病なんて…

837

いつもの店で 同じひとを指名して 前と一緒の物を選ぶことに 彼らは不満もなにもないので わたしはどんどん鈍くなる 新しい音楽を探すことが億劫になるみたいになにも変わらないと盲信することほど危ういことはない 永遠なんてないと誰もが知っているはずな…

836

深夜 窓を閉ざしたはずの部屋に蝙蝠 換気扇の隙間が怪しい それ以外はどこにも穴なんてない 羽音で眼が覚めて夢うつつのまま身体を起こした 爪でなにかをひっかくような音 旋回する羽音 ちいさな衝撃音 渋々起き上がり 灯りをつけて窓を開けると ほどなくし…

835

下腹部に鈍痛を覚えるたび あのひとの子供が欲しかったと思う あなたの子供が欲しかったと言った凍えるような真冬の夜のことも コートのポケットのなかで繋いでいた手を 一瞬つよく握ってくれたことも はっきりと憶えている 死にそうな顔をしていた あるいは…

834

頭痛 休みがくるたび身体がだめになってしまう それでも今日はましなほうだった 宇宙人との交信について 恐らくそれは不可能だと彼は言った わたしは 彼等が存在するとして 同じ時間軸に生きて 同じような形態であることを前提とした場合はダメかもしれない…

833

ほんの少しの変化 前髪を短くしなかった 可能性をすべて信じてみる 良いことはぜんぶ ありとあらゆる可能性を 出来る限り試したい きっとうまくいくから 少しずつ進む

832

胸にちいさな金属を埋めている チタン製の土台についているのは金色の縁で囲まれた透明のガラスだが 光があたると金剛石のようにきらりと輝く 孔をあけて一番最初に見せたのは 一番好きなひとだった 会って一番に耳を確認して なにもついていないことに気づ…

831

思いがけず瓶を開けたら煙が上がったので わたしはカティ・サークのように揺れている 空を見上げれば水夫は汽笛を鳴らして 帆は風を受けて力強く張られていた 白鯨がいない海で何を目指せばいいのだろう 透きとおった細いグラスが光を受けて煌めく あなたは…

829

甘い水で濡れたあのひとの唇は薄くて軽い思い出すのは骨ばった手の長い指とか ピアノを弾くように叩くキーボードの音とか たいしたことじゃない 大体もう顔もあまり覚えていない そういえばどんな声で喋るんだっけ 翻訳した日本語みたいな会話をしたね もっ…

828

愛情表現が苦手な男だった 言葉にするなどもってのほかで 顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしていた わたしが傷つけられたのを知ったときに 相手を殺したいほど憎いと怒ったと人伝に聞いたことくらい 頭を撫でられたり 抱きしめられたりすることはなかった こ…

827

生まれたばかりの まだ生きることしか知らない子供たちを 後先も考えずに殺していった 禁猟区で 男たちは笑いながら 死んだ子供たちを籠に入れて街へ売りにゆくのだ 生け捕りにされた子供は 濁ったぬるい水のなかで弱り じきに力尽きてゆく やがて沈黙の春が…

826

『弱さを楯に嘘で固めた要塞に暮す生活はどうだい 僕にはもう身体以外何もないのだけれど 季節さえ良ければ悪くはないものだよ 太陽と共に生きていくということは ある意味では君らの大好きな自然豊かな生活というものだし 夜になれば好きなだけ流れ星を探す…

825

普通のセックスという幻想 18歳のときが初めてだった 処女懐胎をしなかったのは聖母として選ばれなかったということ 痛みについてはよく憶えている どうして出血には熱を伴うのだろう? 挿入 裂傷 破瓜 摩擦 摩擦 そして摩擦 泣き叫ぶわたしの口を抑えながら…

824

館を出た日から義父の顔を一度も見ていない 戻ってきたら よく知らないけれど何処かへ行ってしまったようだ することもないので 夫の拳銃と靴を磨いていたが それもすべてぴかぴかになってしまった だからもう何もすることがない 上着には蒸気アイロンがかけ…

823

生きることの意味は見つけたような気がするけど 価値まではわからない 存在するに値するほどの値打ちはない けれど価値が無くとも愛しいものはあるので それで好いんだ

822

まだ明るい帰り道の草木の鮮やかさ 水を張った田園には空が映り 夕陽を煌めかせながら波打つ 畦道に咲いた綺麗な花の名前を知らないまま大人になって 一度も困ったことはない 灰汁が強すぎて食べるのには適してはいないと聞いているくらい 蛙なら鳴き声で大…

821

通り過ぎていった一瞬の 事実が生成されるまでの長い 長い時間が 弾ける泡みたいな 溶けてった雪みたいな なにか 手紙を書かなかった 今日も 明日も書かないだろう宛名の無い手紙が重なるのと 何も重ならないことと 泡を作ることと 雪を降らせること インク…

819

保障された身分と引き換えにされた時間 千円札で巻いた命の細切れ 血みどろソース仕立て 作っては食べ 食べては吐くだけの繰り返し あなたの鼻血と わたしの胃液が ひびがはいったボウルのなかで混じり合う 白くて脆い器なかで泡立ちながら わたしたちは両手…

818

黄色い砂はまだ若い砂 赤い砂は眩暈を起こして 黒い砂は眠っている 身体を動かすのがつらいが 遠くで鐘の音がなり合唱が始まった 祈祷の言葉を唱えているのだが 言葉がわからない自分には歌のように聴こえる 通訳をしてくれた娘によると 何千年も昔に高名な…

817

汗ばんだ肌は永遠に乾くことがないかのように蒸し暑く湿っている 土で塗られた壁は冷たいが しばらく触れていれば体温がうつってしまう とにかく暑いのだ ここでは日が暮れるまで外に出る者はいない どれだけ格子の向こうで揺れるブーゲンビリアが涼しげに揺…

816

病めるときも 健やかなるときも あなたはいないから わたしはいつもと同じように祈ることが出来る 変わらない気持ちで あなたを愛す

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靴を売った 酷く傷んでいたので ほとんど値段はつかなかったのは仕方がない 随分前に古着屋で買ったとき 既に傷だらけだったのが 今度こそ本当にぼろぼろになってしまった 或いは捨てるべきだったのだけど 長年履いた靴を一体どのように処分すべきかわからな…

814

ツツジの植えられた花壇の傍を通りながら 「子供の頃よく蜜を吸ったわ」と彼女は懐かしそうに言った 「今も吸いたい?」立ち止まって濃いピンク色の花弁を摘むと 雌蕊や雄蕊を残してつるりと抜けた 根元に触れると透明な糸が つぅとひいた 「駄目よ 勝手に千…

813

まだK市に彼のアパルトマンがあった最後の初夏 群青色のドイツ車 薄荷煙草とワインの夜 名前を忘れてしまった映画とローストビーフ 激しい行為のあとで 彼はわたしをベッドに縄で縛りつけたまま眠ってしまった 無茶苦茶だった ふたりともお互いのことをこれ…

812

寂しさを理由にひとの気持ちを利用するなよ あらゆる想像力の欠如という暴力 失って初めて後悔するのは当然のことだけど そうなることを予測することは出来たはずなのに 激しい興奮の内に忘れてしまうのか 治った傷の痛みを永遠には憶えていられないように

811

音楽は苦手だけど好きだ 大きな声で歌えば褒められるころまでは良かったけど 楽譜が読めなくて 覚えるのも出来なくなってから てんで駄目になった 三角比の定理や 物質の熱量について結局理解することはなかったみたいに 16ビートが何か未だにわかっていない…

809

白いライラックにはとても悲しい伝承があるので この花が5cmくらいの冬に咲くオレンジ色の花だったら良かったのにと思う でも一体 ベンジーはどんな花を想像していたんだろう 街角に咲くリラ 降り注ぐ光と芳香 5月の風 誰もいない目抜き通り 安寧のなかにた…