Fiktion

1219

ニルゲンドヴォの切り通しは土で埋め立てられ まるで初めからなにも無かったかのように ヴォトカの流れてゆく音とエタノールの香りだけが風にのり漂っていた 森には白黒の羽根をつけた蛾が飛びまわり 小屋の扉のまえでは三匹の鼬がどこからか盗んできた干し…

1218

今年はじめてさくらんぼを買った それから枇杷とパイナップル アボカドも一緒に 夏は果物の種類が豊富で嬉しい 冬の間は毎日のように林檎や柑橘類を食べていたけれど 桜桃や李が好きなのでこの時期が来るのを楽しみにしている いつだったかお土産にもらった…

1217

家に帰らなければ 帰らなければならない でももう時計の針は11時を示しているし 白夜のない街はとても暗いので このままここにいるべきかもしれない ところでここはわたしの家であった わたしはどこへ帰ろうとしていたのだろう? そんなことより早く帰らねば…

1216

過ぎ去った日々のことばかり想い患う あの夜 初めてわたしの名前を呼んでくれた雪の日に わたしはわたしになったと思ったけれど そうなるべきではなかったのか 壊れて もう建て直すことが出来ないのだろうか

1215

医者はわたしの胸に聴診器をあて 息を大きく吸ったり 吐いたりするよう指示した それに応じるのは子供のころ以来かもしれないと思う ワンピースの背中のファスナーを閉じようとしたら 白衣を着た背の高い赤髪の中年女が背後に回って引き上げてくれた ホック…

1214

鶏と犬の鳴き声で起床 ゆうべのアルコールが残り頭がずきずきと痛んでいる 日焼けして黄ばんだ紗のカーテンをあけると 昨日と同じようにM河の茶色い濁流が見えた 景色が楽しめるのは悪くないが 別に見えなくてもいいようなものだ 数日前の豪雨の影響が残っ…

1213

絡まった髪をほどいて それは愛でした M河沿いの安ホテルに宿を取った 階段しかないビルの5階からは三角州が遙か遠くに見える 寝台とちいさなテーブルが一台あるだけのちいさな部屋は壁の漆喰が剥がれかけているし 申し訳程度にある洗面台の鏡はあちこち錆…

1212

なるべく思い出さないようにしてきたけれど 人生のうちでほんの数日しか共に時間を過ごしていない男に対して これほど激しい感情をもつのは偶像崇拝とか信仰とかにちかいものがあって 恐らく いや間違いなく 彼と1週間も一緒に暮らせば充分満足する という…

1211

日常を切り裂く悲鳴駆けつけた救急隊員は「ここは特別な場所ですから」と言ったので 確かにここは日常的に特別な場所であることを思い出した そうしてわたしたちは何度も同じ説明を繰り返し 彼の意識が戻ることを祈った

1209

宿題も試験もない夏休みを取り戻すのに 誰にも邪魔させない 強くならなければJetzt oder nie!チャンスを逃してはならない その時のために爪は磨いておくべき

1208

高校時代 2年間だけ彼女と同じ学舎へ通ったけれど 一度も話したことはなかった いや先生に頼まれてノートか何かを渡しに行ったことがあったので その時に名前を呼んだと思う 彼女はわたしの名前など知らないだろう それからもう何年も過ぎて大人になり わた…

1207

初めて通る道 初めて座る車の助手席 初めて見る運転姿 ひと通りの仕事を終えて帰路へついた フロントガラスに落ちる雨のしずく こんなに早く降り出すなんて思わなかった 来た道を戻る道すがら北国の街を思い出した 赤い煉瓦造りの建物は郵便局だったけれど …

1206

もしも生霊になって ひどい奴らを皆殺しに出来たとしても 彼がわたしを好きになることもないし 手に入らないならいっそ殺したい でも出来なかった そうだ あの日わたしは彼を殺せなかった そのうえ誕生日には骨が欲しいかという彼に 5分でいいから長く生き…

1205

たとえば痩せたら 二重瞼になれば 鼻筋が通って顎も細くなったら 癖毛が絹糸のように美しい金髪になれば レースのワンピースから白い肌の長い手足で歩いたら 街ゆく人々がみな振り返ってその残り香にうっとりするような女であれば あとどれくらい後悔すれば…

1204

薄暗い建物から外へ出ると 太陽のまぶしさに目が眩んだ 川べりはもうすっかり夏になっていて 清流を何十匹もの小魚が泳いでいるのが見えた 時折鱗がきらきらとひかる 光と影の対比が強くなり 木々や草叢の葉は一枚一枚がその色を確かに主張し 砂利ですらから…

1203

白い丸襟のブラウスを買った 柔らかな生地が生クリームのようにとろりとしている それからチュールのアンダーウェア もうどうしようもなく可愛い しばしば下着姿で暮らせたらいいのにと思うくらい 世の中には素敵なランジェリーが溢れていて しかも長年着て…

1202

あなたの声が聴きたい 囁くように話す言葉の一つひとつ 薄い花びらを重ねたちいさな花のように繊細で 風でゆらぐ水面を煌めく光のような あなたの声 シタールの音色 ヒマラヤスギの香り 伸びてくしゃくしゃの髪と骨ばった指 瞳の色は淡いブルーだった いいえ…

1201

ヘアゴムをいつの間にか失くしてしまった 大体わかっている 電車の中か駅で落としたのだ 見つかることはないだろう 普通の という表現は好ましくないけれど 普通の黒いつなぎ目がないヘアゴムだった 夏を過ごした男は仰向けになりわたしを腰の辺りで跨らせる…

1199

茹で卵の殻を剥くとき左手を使うのは もしかすると左利きだったのかもしれない 食洗機に食器を入れにくいのは 多分流し台の右側に置いてあるからだ 握力のことはよくわからない 多分どちらも上手く流れていないから 正しい数値を出せていないと思う あまりに…

1198

図書館へ行ったかえりに森へ鳥を見に行った 雛が孵ったのか もう成長したのか知らないけど かなり鳴き声が聞こえていて わくわくした ところで鳥の巣は背の高い樹の上のほうにつくられているので 下からは何も見えなかったし 鳥がどこにいるかもよくわからな…

1197

授業のあとで食堂へ行った 学生のころは200円のうどんも高いと思って スーパーの特売で買う腹持ちの良い高カロリーな菓子パンばかり食べていたし そもそも授業をまともに受けてから食堂へ向かったのでは既に満席で座れなかったから たぶん物珍しさで行った一…

1196

新しいリップスティックとファンデーションの取置きを頼んだ このところアイシャドウはかぶれてしまって何もつけていない 本音では口紅だけさすくらいで充分なのだけど この国で社会の歯車として動くにはなぜかファンデーションも必要で でもそれはスムース…

1195

いつだったか「あなたは薔薇のように華やかではないが鈴蘭のように可憐だ」と嬉しい言葉をもらい喜んだので 以来 目立たなくても笑顔でいることを心がけている 薔薇には棘があるが鈴蘭には毒がある

1194

意識を無くすほど眠い うとうと揺れるどころじゃない 一気に潮の流れに呑まれて深いところまで沈んでしまう 考える暇もなく次に眼を開いた途端に時計の針がぐるりと回っているのだ 夢は見なかった

1193

大抵のことなら わたしの若さと美貌に嫉妬していると思うことで どうでも良くなる その程度のことだから わたしの事情を彼女は知らないし 彼女の事情をわたしは知らない 教えたくないし知りたくもないけど 痛みに関しては殊更 伝えきれるものでもないから 話…

1192

ブログの更新が千日を越えてから ときどき語呂合わせで覚えた年号のことを思い出す 3桁の頃よりは圧倒的に多い 歴史は好きだけど年号がまるで覚えられなかったから苦手だった 鎌倉幕府はほんとうは1185年に出来たとか いや征夷大将軍になったのは1192年だか…

1191

スマートフォンを忘れたまま出掛けてしまったけれど 大して不便なことはなかった 時計を持っていないので時間がわからないくらいだけど 誰と待ち合わせしていることも なにも慌てることもないので困ることもない バスの中で手持ち無沙汰になり ポケットを探…

1189

山の話を聞くたび思い出すひとがいて わたしもいずれ 一度は登らないとなぁと思う 気候の良い時期に まずは低い山のピクニックコースから 必要最低限の荷物を背負って 歩いて 頂上を目指す 山頂では仲間たちと記念撮影もするだろう 正直そんなの苦手なのだけ…

1188

援助を求めなくとも助けてくれるひとがいることには感謝すべきだし その思いこそ口頭で伝えることが大切 それから困ったときに助けてくださいと祈って 効き目がなかったから神様はいないと嘆くのはやめること わたしの神様はわたし自身が健やかに生きること…

1187

これまで生きてきて 助けを求めなければどうにもならないようなことが起きなかったのは幸いだけれど 或いは必要な時に適切な援助を求められていなかったのかもしれない たとえば些細なこと 部屋に大きな蛾が入ってきたのが気持ち悪くても 誰も来てくれないか…