Fiktion

976

前髪が伸びてきたので美容院の予約を考えながら ふと 自分で切ったのはいつが最後だっただろうと思ったが思い出せなかった 女給を勤めていたころ 眉の上で切り揃えた髪を見て あの有名な女優のようだと褒めてくれたやさしい調理長 今度切るときは俺にやらせ…

975

憂鬱な時代の夢を見ていた 色彩はあるのにすべてが白黒テレビの画像のように見えて 何もかもがソリッドであるのに触れることも掴むことも出来ない 雲のように 手に入らないこと それ自体が気持ちを高揚させる むしろ所有することは厄介なものなのだ 手間暇を…

973

牡蠣を買った ケルキパの海で採れたらしい どれも丸々と肥っている 今夜は魚にしようか肉にしようかと眺めていたら鮮魚店の女が焼いて半分に切ったのを食べさせてくれた 磯の香りと牡蠣特有のまろやかな味わいがひろがり 朝陽が昇るケルキパの穏やかな海が眼…

972

薄い紙で指先を切ってしまった 紙に触れた瞬間に あ これは切れるなと思うことがあるけれど 止められた試しがない 切れるなと確信した途端にもう鋭利な刃物が滑ったように すぅと皮膚に赤い線が走っているから 少し厚手の紙ならどうなるか? 切れないわけで…

971

世界の終わりを夢でみるときはいつも俯瞰 はじめは逃げているはずなのに 気がつけば高いところから地上を見下ろしている 死がそのようなものであるとしたなら なんとなく悲しいと思う 眼の前の景色から遠ざかりながら意識を失くし 永遠に戻ることが出来ない…

969

遠くで緑色のひかりが点灯しているのを確認して 暗い水面へ舟を走らせた 果たしてそれは正解であったのだろうか? 空腹が思考を停止させるので わたしは自分を甘やかす 他に誰も気を使ってはくれないのに 他に誰がそんな嫌な役をするの ひとりで消化しなくて…

968

セロリを煮込む わたしはセロリが好きだし 夏が駄目だったりするから 歌いながら煮込む 意味も知らない異国の歌を あなたはそれを嫌がる 育ってきた環境が違うものね 出来上がったスープを飲んでひとくち あなたは顔をしかめて もうなにも我慢する気もない

967

突然「あんたは男を見る眼がないね」と言われて 「そうなんですよぉ」と曖昧に笑って答えたけれど 内心すこしも穏やかではなかった どうしてそんなことを急に言われたのか ろくに話したこともないのに 誰が話したんだろう それ以前に 誰との関係について言っ…

966

新しいセーターを買った 首が詰まった暖かい毛糸のセーターだ 何年か前に買った深緑色のセーターと同じかたちと肌触りをしている 特に何がというわけでもないのに ここ数年ですっかり顔が変わってしまった ある人は 女なら誰でも喜ぶと思っているのか 会うた…

965

心穏やかに休日を迎えるために 失われたいくつかのかけらを探し出さねばならない そして忘れていたことを思い出さないように しっかりと忘れてしまうこと 苦しいこと悲しいことを振り返らないでいること

964

いるべきところへ戻るということ あるべきかたちへ直るということ 公園の真ん中に置かれた回転式遊具は知らぬ間に撤去された 老朽化による劣化とその危険性を危惧して 危ないものは遠ざけられ 排除され やがてそこで遊んだことも忘れてゆく 寂しいけれど誰か…

963

このままぜんぶ無かったことにするか もう一度夏至の日に戻るか 通り過ぎていった季節と鮮やかな景色 夜の闇の中で初めて 輝ける光を知った 限りなく体温に近い空気に包まれながら わたしたちは戯れに欄干から身を乗り出して遊んだ その愚かさ 空虚な悦楽で…

962

温かい布団を出したので もうひとりで眠っても寒くないし寂しくもない 枕元にはウィスキーを 煙草はもう辞めたから グラスひとつあればいい 冒頭の3ページから進めずに埃を被った本を またいつか読む気になれるだろうか ならなくたって構いはしない いまは眠…

961

あなたの姿をまた忘れてしまいそうです 少し曲がった背筋や 細く伸びた長い手足 物憂げでいつもなにかを窺うような眼差しで話すあなたの貌を忘れてしまいそうなのです あのひとの眼はあなたに似ている そのことをわたしは絶対に話さない 同じ身長 同じ体型 …

959

手帳もカレンダーも持たないので 悩むことがない 家計簿は毎年同じものを使っている 突然中身が変わってしまうなんてことがあるなんて夢にも思わなかった けれどありえる話なのだ ショックを受けながら 全然違う雑誌を買った どうしてしまったんだろう

958

愛していなくてほんとうによかった ただの遊びとして無茶苦茶にして後悔しなかった 誰も傷つかなかった きっとこれからも 寒くて寂しくて死にそうというわたしを あのひとは 「ウサギさんみたいだ」と言う 冬眠が出来たらいいのに 春が来るまでずっと眠れた…

957

Sは赤いスープが好きだった それは何か赤色の実で作るスープで 乾燥させて細かくしたものを煎じて飲んでいたんだと思う ケルキパでは女の気怠さに効くといわれ しばしば目にしたのだけど ここらの言葉ではなんと呼ぶのか知らないので まだ見たことがない も…

956

ケルキパのほうから便り 彼女は男の子を産んだ 差出人の名前を書き忘れた封筒 その文字を見ただけですぐにわかる もう10年以上会っていないけれど わたしたちはとても大切な時間を共有しているので お互いが忘れてしまわない限り 一生会わなくても平気なのだ…

955

覚えられない日付がある 7と9 それから 24と26 友達の誕生日を忘れてしまうのだ 今のところ 忘れがちなのだと先に謝っておくことで許してもらえているけど 夫の誕生日でも覚えられなかったから 誰のというわけでなく 数字のほうに原因がある 24歳の時もそう…

954

灼熱の大地に降り注いだ あの暴力的なつよさの風雨を 激しい稲妻を 通り過ぎていったあとに残された水浸しの道路を ほとんど忘れかけていて どうして橋が渡れなくなったのか 門扉は永遠に閉ざされることになるのか やがて誰も知らない日がくるのだろう 切通…

953

ビーツが安く売られていたので つい買ってしまったけれど 子供のころはこれの酢漬けが大嫌いだった まず色が気に入らない 赤というより紫をしていて 波状にスライスされたのが丸いかたちをしていて それは円筒状に切ってから波状にスライスしているのかもし…

951

半練りの化粧品は金属的な光り方がまるで鯖の鱗のように鈍く光っていた 店員は早く帰りたそうな顔をしながら それが最旬流行色だという 冗談でしょう それは90年代の色味 サイエンス アンド フィクション あるいは サイケデリック フューチャー だけどやって…

949

新月なので黒い服を着ている 夜に身を溶かし 生まれ変われるように でも新しいことなにも決めてない 白紙のまま黄ばんでゆく手帳のように なにも予定がない

948

可愛くてチープな下着はすぐにくたびれてしまう 繊細というほどではないレース 絹のように見えるポリエステルシルク 彼はうきうきした様子でわたしの腰の紐を解き 脱がせたペールブルーの下着に頬ずりしながら この布地が好きと言ったから今日はパンツの日 …

947

求めてはいけない ましてや縋ることなど許されるはずもない 愛してはいけない 望んでもいけない ただ拒まずにいることだけは せめて 世界の果てでいつまでも祈っています

945

本当のことを話しているときに限って 物語を聞いているみたいと言われるのは心外だけど ある意味では毎日が休暇中の冒険のようなもので そこへ嘘を混ぜるとちょうどいい温度になり すっと溶けてゆく 淹れたてのブラックコーヒーに 角砂糖を落とすように 誰に…

944

急に寒くなったような気がしていたけれど もう9月も半ばだった 次の満月のころにはニルゲンドヴォにこの冬 最初の雪が降るだろう そして遥か北の山に落ちた雪のひとひらは枯葉のうえで 春がくるまでじっと溶けずに眠る

943

輝いていた10代が懐かしく見えるのではなくて 今よりもマシだったというオチ 悪い報せが無いのはいいことだ みんなが満足しているなら 他人の不幸を探そうとはしないから 隣の芝生に除草剤を撒いたのは 見たこともないぜんぜん知らないひとだった ベランダか…

942

プラトニックであることに理由も意味もない すぐそこに違う世界が並行して存在している かもしれない幻想 21世紀とは思えない砂埃の舞う荒地で 彼は砂糖黍の茎を歯で齧っている それは幼かったころの夢 より良い日々を送れただろうと期待するだけの

941

化粧水とクリーム それからリップクリームを買うこと 色んなのを試したけど 結局 香りとテクスチャーが重要で 効果というのはどれも同じくらい良かったから 安いのを幾多も買ってあちこちで使って失くすよりずっといい 香りはするのが良いは限らないけれど …