Fiktion

1248

手を滑らせるといけないので いつもの赤茶色をしたゴム手袋ではなく 軍手をはめなければならない 鱗にぬめりがあるのだ まな板の上に置き頭を押さえ 腹びれのあたりからすっとえらまで刃をひくのは 簡単そうに見えるが じつは結構力がいる 開いたら中から赤…

1247

初めて手を繋いだ日のことを思い出して 少しだけムカついて でもやっぱり愛しい

1246

あと2日もしないうちに彼は街に戻ってきて 違う天井の下で暮らし 同じ女の子と眠る夜をまた始める これまでに何度も繰り返してきたことだけど もう彼は昔のように若くはない 勢いだけで傍若無人に突き進んで来れたとしてもその足元はあまりにも脆弱だった つ…

1245

未来を描くのと虚構を描くのは 同じ絵空事でありながらもまったく別のことなのに 第三者から見ればどちらも想像の産物に過ぎず 言葉はどこまでも言葉でしかない(しかしそれでも虚言として存在しているのだ)

1239

ひどい天気だった いまも続いているあの人はわたしに 骨がほしいかと言った わたしは 先に死なないでほしいと答えた もしその日が来たならば いつか舟に乗って迎えにゆき その時こそ骨を頂戴と言うだろう先に逝ったひとの骨は 海に撒かれてしまったので珊瑚…

1238

徒労におわるというのが嫌いなので 何かしら理由をつけて納得させたいのだけど とんだ茶番を見せつけられたときには また少しタフになれたねとしかいうより他にない そんなに強くなりたくもないのだけど 大切なのは強さを誇示したり 必要以上に強がらないで…

1237

紛い物の高級時計を売っていた店はもう無かった 両隣の店を区切っていた壁とシャッターも外され 棚や什器がない床は広く 紙屑や大きな玉埃が転がりそれは もう店が片付けられてから既にかなりの年月が過ぎていることを示していた とはいえ電池交換は頼んだこ…

1236

朝 通勤途中の列車で見たニュース J.D.サリンジャーの未単行本化作が刊行されるという 正しくはもう発売されている 先月の末に ぜんぜん知らなかった もう新しい作品は少なくとも日本語では読めないと思っていたのに サンドイッチにマヨネーズを忘れるなんて…

1235

知らない街へゆくための道筋を 知らないひとが教えてくれたので 知らないなりにどうにかなると思う 冬の街で行き先を教えてくれた老女はわたしの発した短い地名の一語だけのために 延々となにか説明をしてくれて しかし単語のひとつも理解出来なかった 去り…

1234

郵便局へ行き 恵まれない子供たちのために物資を送った 自分が使わないものを他人へ与えるのはなんとなく気がひけるが 信じられないものでも喜ばれることがあるし 逆も然り 使わないものは必要としているひとの手元へ行けば良いと思う選択肢があるということ…

1233

穴を掘った 鍬で雑草を断ち 黒い湿った土を起こすと幾匹もの蚯蚓がぐにゃぐにゃとうねりながら また奥へ戻ろうとしていた あたりには青臭い匂いがひろがっている しばらくの間耕してから スコップに持ち替えて 穴を掘った ごろごろと転がる小石と土を掘り起…

1232

靴の爪先にラバーを貼ってもらおうと 下駄箱からハイヒールを出すと 踵が両足とも壊れているのに気づいた もう10年近く眠っていたのを貰って履いたのだから仕方がないことだろう いつもの店へ行くと愛想のよい職人がにこにこしながら預かってくれた 引き取り…

1231

何年も前に殺した女の名前を検索する 彼女の名前も顔写真も検索結果に表示されないことを確認して安堵した もう彼女はいない 人は肉体が滅ぶ生物的な死と 存在を忘れられたときと二度死ぬというが 彼女はほぼこの世から消えたといえよう あとはわたしが忘れ…

1229

小柄で手足は枝のように細いけれど よく歩くし 短い金髪は柔らかくて 白い肌によく似合っていた カリフォルニア・ガールの名前を思い出せなくて 考えているうちに 髪をお揃いに編んでくれたことや 歴史博物館では露骨に退屈そうな欠伸をしたこと カジノへゆ…

1228

夜の特急電車は果てしなく続くトンネルの中を走るように バラストの上に敷かれたレールを走り 前照灯が闇を切り裂いてゆく 暗さはしかし無限に広がり いくら途切れたところでまた繋がってゆく 頼りなく光る車内灯は朧げにあなたの輪郭を照らし その表情は如…

1227

橙色に燃え上がる西の空から生温い風が吹くテラス席 並んだ丸いテーブルの間を歩く娘の長い円形スカートの裾が踊り 夏の夜が始まった 生命の水を注がれた幾多ものちいさな酒杯が銀盆に載せられて運ばれてゆく どの季節にもこの一杯がなければ宴とは呼べない…

1226

旅立つ準備が整わない部屋のなかで あたらしい生活を始めるひとたちのことを思う 憎んでもナイフを向けることが出来ないなら 一生離れていたほうがいい

1225

木綿豆腐 油揚げと豚肉を200グラム買ってきた 先週買ったアボカドが熟したので サラダにしようと思う トマトとキュウリが入った冷製のミソスープを試してみたい

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必要なものだけを吟味して選ぶこと 値段で決めたり なにかの記念にという理由で買うのはやめること 勿論そうして手に入れたものが役に立つ場合もあるけれど 大抵想い出にしかならない 想い出は買うものではなくつくるほうがいい 身の回りを整理しておくこと …

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西の空は橙色がおぼろげにひろがり 通りもまだ明るく 確かに今日は夏至だった鉄筋コンクリート製のビルに妖精は現れない 地震のあと現れたのは大きな亀裂だった 階段が落ちてしまったなら どのように逃げればいい 立入禁止になったフロアの生温さ 外の温度を…

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また雨が降っている 眠くてなにもする気になれない こういう日にこそ映画を観てやり過ごすのがいいのだけど たぶん五分とたたずに寝てしまうだろう よほど笑えるやつなら起きていられるかもしれないけど そういう気分じゃないということ

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通路の窓から見える景色は大して見晴らしが良くもないし 排気ガスを撒き散らしながら何千台もの車両が片側4車線の道路を走る その奥には取り残された墓地と再開発事業で手付かずの空き地ヒリヒリするような気持ちになるのは 街のせいじゃないのに あの感じは…

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ニルゲンドヴォの切り通しは土で埋め立てられ まるで初めからなにも無かったかのように ヴォトカの流れてゆく音とエタノールの香りだけが風にのり漂っていた 森には白黒の羽根をつけた蛾が飛びまわり 小屋の扉のまえでは三匹の鼬がどこからか盗んできた干し…

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今年はじめてさくらんぼを買った それから枇杷とパイナップル アボカドも一緒に 夏は果物の種類が豊富で嬉しい 冬の間は毎日のように林檎や柑橘類を食べていたけれど 桜桃や李が好きなのでこの時期が来るのを楽しみにしている いつだったかお土産にもらった…

1217

家に帰らなければ 帰らなければならない でももう時計の針は11時を示しているし 白夜のない街はとても暗いので このままここにいるべきかもしれない ところでここはわたしの家であった わたしはどこへ帰ろうとしていたのだろう? そんなことより早く帰らねば…

1216

過ぎ去った日々のことばかり想い患う あの夜 初めてわたしの名前を呼んでくれた雪の日に わたしはわたしになったと思ったけれど そうなるべきではなかったのか 壊れて もう建て直すことが出来ないのだろうか

1215

医者はわたしの胸に聴診器をあて 息を大きく吸ったり 吐いたりするよう指示した それに応じるのは子供のころ以来かもしれないと思う ワンピースの背中のファスナーを閉じようとしたら 白衣を着た背の高い赤髪の中年女が背後に回って引き上げてくれた ホック…

1214

鶏と犬の鳴き声で起床 ゆうべのアルコールが残り頭がずきずきと痛んでいる 日焼けして黄ばんだ紗のカーテンをあけると 昨日と同じようにM河の茶色い濁流が見えた 景色が楽しめるのは悪くないが 別に見えなくてもいいようなものだ 数日前の豪雨の影響が残っ…

1213

絡まった髪をほどいて それは愛でした M河沿いの安ホテルに宿を取った 階段しかないビルの5階からは三角州が遙か遠くに見える 寝台とちいさなテーブルが一台あるだけのちいさな部屋は壁の漆喰が剥がれかけているし 申し訳程度にある洗面台の鏡はあちこち錆…

1212

なるべく思い出さないようにしてきたけれど 人生のうちでほんの数日しか共に時間を過ごしていない男に対して これほど激しい感情をもつのは偶像崇拝とか信仰とかにちかいものがあって 恐らく いや間違いなく 彼と1週間も一緒に暮らせば充分満足する という…