Fiktion

889

夜 川辺の砂は湿り気を帯びて光る 橋のしたで わたしたちは罪を犯す 生温い風を感じながら どこへも行くこともないで

888

骨のように白い髪飾りを買った 鼈甲色と迷ったので 隣にいた男にどちらが好ましいか尋ねると 彼は迷わずに白を指差して 女の子には白いものを身につけて欲しいんだと照れ臭そうに答えた わたしは彼らが求めるように振る舞うことが好きなので 白い髪飾りを選…

887

誰も彼もが悪いひとばかりなので この茶番 すこしも面白くない 彼女が彼女のことを それほど好きじゃないひとしか愛せないのは どうしようもなく不幸なことではあるにせよ 誰からも愛されないよりも 幸福なことなのだろうか 神様はあなたが思うよりずっと 愛…

886

退屈しのぎだったはずの恋煩い あるいはもう 死に至る病 その白いブラウスはまだ汚れてはいないのではなく 漂白されただけ つまり汚れたら洗えばいいし 破れたら繕えばいい そんなに難しいことじゃない 元に戻すことなんて なにも出来やしないんだから

885

簡単に揺らいでしまうのではなく 強く愛しすぎてしまっただけで 彼女はわたしを魔性の女だというけれど なんてことはない 他人より執念深いだけだ抗うことを諦めて深淵に飲み込まれてゆくのか 痛みを忘れた肉体から 流れ出た血液にヘモグロビンが足りないこ…

884

早朝 エンジンの音で目が覚めたので カーテンを開けるとインターホンが鳴った 新聞配達人なら無言で立ち去るのだけれどと 窓を開けて階下を覗くと 青いコンバーチブルに乗った夏が来ていたので 手を振ってすぐに行くから と 慌てて階段を駆け下りて扉を開け…

883

かすかな濁り ひかりは揺らぎながら砂のうえを流れる ゆっくりと呼吸にあわせるように 腕を前後にかきながら 脚を折り畳んだり 伸ばしたりして水のなかで前へ進む運動を 幼いころから教えられていて いまでは滅多にやらなくなっても ひとたび脚を砂地から放…

882

炎天下のコンクリートジャングルで ひとの波に乗るのも 雨に濡れるのも慣れて どこに行くっていうの

879

この夏がいつまでも続けばいいのに 終わらなければいいのに 上手くいってもいかなくても 間違いなんて そんな 誰も正解を知らないことを

878

一瞬で通り過ぎてった曖昧な感情のこと 愛でも恋でもない不確かな けれども悪くはない 熱帯夜に吹く湿った風のような温度 なにも望んではいけないこと 花が揺れるただその一瞬だけを尊ぶことを忘れないで 彼らの手は大抵わたしよりも平たく 大きなかたちをし…

877

あなたのことを忘れそうになる 狂いそうなほど愛していたはずなのに いとも容易く 何度会っても あなたの顔を憶えることが出来なかった そのような不透明さは あなたという存在をより一層神秘的にさせていたのだけど いまではもうほとんどなにも思い出せない…

876

日曜日 友達に会えない 嵐の日 ずっとまえに解散したバンドの音楽を聴いている 初めて聴いてからもう随分経つのに すこしも古くならない いつまでも好きな歌 生きているひとも もういないひともいて それでも想いだけが残っている 理解することは出来なくても

875

なんといえばいいのか 限りなくピンクに近い菫色のヴェルニを持っていて 瓶のなかで揺らぐときには確かにパールがかった紫色だのに 塗ると愛らしいピンクに見える それは 試さなければ絶対買わないような色で なんとなく惜しい わたし以外に誰もその魅力に気…

874

七夕の夜は大抵雨だけど わたしは彼女が涙ぐんでいるのを見るほうがつらい 傘もタオルも役に立たないなんて そんな

873

氷砂糖に漬けた青梅はゆるやかに成熟し 透明な液体のなかに浮かんでいる 溶けきっていない氷砂糖は白い輪郭を持ち沈み 揺らすと砂時計のようにさらさらと動くのが楽しいのか 彼女は瓶を抱えながら何度も揺らして遊んだ 子供の頃の思い出に梅酒はない 親戚の…

872

すてきな男の子たちは 大抵だれかすてきな女の子と一緒になっている 薬指にひかる指輪がきれいね ひとりぼっちでいる男の子や女の子がダメいうことではなくて 恋人同士の遊びよりすてきなことを知ってたら仕方ないし 人生は短すぎる 楽しい時間は特に ふだん…

871

「また連絡してね」と言う こん畜生め 悪いおとなばかりだ! 台風が過ぎて 街はびしょ濡れになり アスファルトのあちらこちらに虹が浮かんでいる 幼いころによく棒でつついて遊んだものだけど あの正体を未だに知らない たぶん自動車の油だというのが我々の…

868

通りはもうお囃子が流れて 提灯もところどころに飾られている あの音を聴くと胸が苦しくなるのは 心が邪なせいか 過ぎ去った夏のことを思い出すからなのか 離ればなれになることを選んだのはわたしだったけど (いずれにせよ別れるときはくるのだとしても) 寂…

867

湿り気を帯びた夜が音を立てながら流れてゆく 後悔なんてなにもしていない 正しく 別れを告げるということを成し遂げたから それで充分だった さよならを教えてとは言うけれど いい加減に学ばなくてはいけない 誰も正解を教えてくれないのは 知らないからな…

866

緩やかに死んでいった午後の湿り気が 花瓶のなかで腐ってゆく 熱くなった粘液で滑りながら 肉は音を立てながら破れて 傷ついたまま何でもなかった振りをすることを咎めないでほしい 要求はどんどん増えて いまでは本当に望んでいたかどうかすらわからない 日…

865

痺れているとき わたしは流れることが出来ない 澱むこともなく渦をつくりだす 湖の岸辺からほんの少し離れただけで とても深くなっているところは 冬の雪解け水がいつまでも眠り続けているから 禁じられた線を越えた子供たちを容赦なく引き摺り込んでしまう …

864

長すぎるワンピースを買った ぎりぎり踝が見えるくらい長い黒のジャージー素材 どうしたって長すぎるけどいいんだ 夏が来ることが 季節がきちんと巡ることが嬉しい 雨は少なすぎたけど

863

近くで見たあのひとの眼が 細い二重瞼だったのを初めて知った もう会えなくても また何処かで会っても どちらでもいいね 友達じゃないし 兄妹でもないけど 少しだけ特別だった なにが ということもないけれど 少しだけわたしの神様と似ていて でも全然ちがっ…

862

彼女が死んだのは新月の朝だった それは きっと 彼女が何処かであたらしく生まれたということ やり直すことが出来たということ 死は結果ではないというふうに考えるほかにどうしようもなかった 事実死は結果ではないのだ 彼女の生きた30余年の日々のうえにた…

861

ニルゲンドヴォへゆく 雨はまだ降らない 覆い茂る草木を男は鎌でばさばさと刈り取り わたしはそのあとを 地面になぎ倒された枯草とまだ青い草のうえを 踏み締めるように歩き 河辺へ向かった 乾いた枯葉は去年の夏の蒼さだった せせらぎを流れる雪どけは色彩…

859

注文したタンクトップを引取りにゆくこと 机のうえを片付けること 誕生日カードを送ってしまうこと いつが誕生日か忘れてしまったんだけど とにかくそうすること クリーニングから戻ってきたコートのビニールを外して仕舞うこと 夜22時には布団に入って寝る…

858

夏至の日 朝露が集められない東洋の魔女たちは 低気圧にやられて布団のなか 昼も夜もない 雨に濡れた花を集めても 夢枕に立つのは死んだひとばかり 透明になった彼が生きてるときには口づけだって交わしたことはなかったのに

857

甘い香りの女の肌は陶器で出来ているので その声も空洞の壺のなかで響くように高い 壺は朝 満たされる 夜に乾いてしまうのは至極当然のことだ 油で磨かれた手脚はしなやかに動き 心臓は適切な速度で脈を打つ 誰かに教えられたわけではなく 予め設定されてい…

856

時計を身につけなくなったのはいつからだったのだろう ハイスクールへ通いだしたときには 薄い水色をした文字盤のを持っていたし お仕事のときは濃い紺色の文字盤で12と6のところにダイヤモンドがついた銀色のをつけていたのに 多分電池が切れてそのままにし…

855

雨が降らない梅雨 低くなった気圧の底みたいな日曜日はなんにも出来ない どんどん腐ってゆく生卵みたいに 止めることも出来ない時間 乾かない洗濯物 iPhoneに向かって天気を尋ねる あのひとのいる国の言葉で わたしの暮らす街の天気を確認することの愚かさ …

854

花の名前を知らなくても 電子レンジ以外の調理機器が使えなくても 雑誌以外の本を読んだことがなくても アルファベットのWとVが区別できなくても 泳ぐことも 踊ることも出来なくても あの子は全然問題無いらしい それを狡いと妬むか 気の毒に思うか好きにし…

853

薄く切った丸いシトロンを浮かべたコークが飲みたい それにラムをほんの少し垂らして夕陽が沈むのを見届けるから 逢魔時でも怖くない 連続殺人犯と同じ名前の女は テレビで見た犯人より背が低くて ふっくらとした手とお腹を持っていた そしてとても歌が上手…

852

夏が近づくたびに新しい水着が欲しくなる 毎年少しずつ流行は変わるから でも花柄の三角ビキニ これさえあれば安心 世界中どこのビーチでも絶対に可愛いから アンダーは紐で結ばなくていいやつ わたしはちゃんと泳ぎたいから濡れて張り付くスカートも ほどけ…

851

時折自分の声が他人のそれに聞こえる 正しく発声出来ているのか確認すると 彼は「問題ない」と答えた でも違和感があるの と続けようとしたが その台詞すら予め用意されたもののように感じられたので わたしは話すことをやめた 自然光が差し込む部屋が舞台だ…

849

わたしは流れている 流されるのではなく 自ら流れている 水ではない 浮かぶ木の葉やあぶくでもない 流れているもの自体がわたしだ 時折とても強い力を感じる それは重力 あるいは引力のように当たり前に存在し 疑うこともない力だ 或いはそれが運命なのだろ…

848

鳴り続けるアラームを誰も止めない 部屋のなかには行ったりきたりする白い服の女と 入れ替わり立ち替わりする知らない顔の連続で 木々の間で輝いていた光は知らぬ間に消えてゆく 夜は薄い麻の帳のように落ちて 窓ガラスに反射した蛍光灯がやけに白く映ってい…

847

今年初めての向日葵を買った 昨夜の満月のように黄色く 長い茎はしなやかで瑞々しい 旧い友達が近々こちらへ越してきて暮らすらしい わたしたちの母国語をこどもたちへ教えるという それはなんとなく不思議な感じがする かつては私たちふたりとも 別の国でそ…

846

古い手紙を読みながら 誰も不幸にしなくて済んだことを喜び 救いようのない愛の言葉を それでも愛しく想う 冬だったか 夏だったのか 夜の駅で抱きしめたいという彼の申出を拒んだことは 間違ってはいなかった 後戻り出来ないほどの烈しさで身を焦がすには早…

845

通り過ぎていった季節の変わり目に立ち止まることを決めたひとの 瞳の色も髪の色も 海の色だった 6月の砂浜に散らばった白い骨が波にのまれてゆく 満月がどれだけあたりを照らしても 真昼にはなれないことを嘆く必要などないのに

844

青い布は乙女が兄弟の呪いを解くために編むベスト あるいは少年が手作りした服 どのようにして青く染めたのか思い出せないけど あの絵本がとても好きだった 青い表紙 横長の本 羊飼いの少年の髪は黄色く塗られていて それは柔らかな天使の金髪 大抵どの国も …

843

言われた通りに動くのも 言われたことを聞かずに文句だけ言うのも どちらも変化をもたらさない 何を言ってもにこにこしているあの人は それは毒だと怒っても 同じ茸を拾ってくる でも本当はわかっていてわざとしてるだけということを誰もが知っていて やっぱ…

842

ローズマリーがメデューサの寝癖頭みたいに茂るので短く刈り込んだ 収穫はいつでも使いたい時になんて そうそう使うこともないわけで 大体夏前に軽くしている 妖精の涙で濡れた草で編んだリースは魔力が強い 6月の庭でわたしは妖精たちに折檻をして泣かす そ…

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近頃わたしはとても疲れてしまった 気のせいか白髪も増えたし 目尻の皺も目立つ 疲れたなんて言いたくないのに 身体が言うことをきかなくてはどうにもならない 海に行きたい 今はまだ泳ぐには適切な時期ではないし たとえ可能だとしても気力がない けれど波…

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白い清潔な部屋のなかで 今際の際にいるのが自らだと想像してみる 別に砂埃の舞う路上でも 虹色の油がにぶく輝く波が押し寄せるごみだらけの海岸でもいい とにかく死にかけているところを 想像してみる それは単純なことであるのに 容易くはない 独りで死ん…

838

切り離された内臓の柔らかさ ついさっきまで皮膚と肉と骨のしたにあったというのに 赤くなった生理用食塩水のなかに浮かぶ冷たい塊になった 6月が始まる 夜の森では鷺がぎゃあぎゃあと鳴き叫び 狼が吠えている 闇のなかで抗うことが出来るからもう肺病なんて…

837

いつもの店で 同じひとを指名して 前と一緒の物を選ぶことに 彼らは不満もなにもないので わたしはどんどん鈍くなる 新しい音楽を探すことが億劫になるみたいになにも変わらないと盲信することほど危ういことはない 永遠なんてないと誰もが知っているはずな…

836

深夜 窓を閉ざしたはずの部屋に蝙蝠 換気扇の隙間が怪しい それ以外はどこにも穴なんてない 羽音で眼が覚めて夢うつつのまま身体を起こした 爪でなにかをひっかくような音 旋回する羽音 ちいさな衝撃音 渋々起き上がり 灯りをつけて窓を開けると ほどなくし…

835

下腹部に鈍痛を覚えるたび あのひとの子供が欲しかったと思う あなたの子供が欲しかったと言った凍えるような真冬の夜のことも コートのポケットのなかで繋いでいた手を 一瞬つよく握ってくれたことも はっきりと憶えている 死にそうな顔をしていた あるいは…

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頭痛 休みがくるたび身体がだめになってしまう それでも今日はましなほうだった 宇宙人との交信について 恐らくそれは不可能だと彼は言った わたしは 彼等が存在するとして 同じ時間軸に生きて 同じような形態であることを前提とした場合はダメかもしれない…

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ほんの少しの変化 前髪を短くしなかった 可能性をすべて信じてみる 良いことはぜんぶ ありとあらゆる可能性を 出来る限り試したい きっとうまくいくから 少しずつ進む