Fiktion

948

可愛くてチープな下着はすぐにくたびれてしまう 繊細というほどではないレース 絹のように見えるポリエステルシルク 彼はうきうきした様子でわたしの腰の紐を解き 脱がせたペールブルーの下着に頬ずりしながら この布地が好きと言ったから今日はパンツの日 …

947

求めてはいけない ましてや縋ることなど許されるはずもない 愛してはいけない 望んでもいけない ただ拒まずにいることだけは せめて 世界の果てでいつまでも祈っています

945

本当のことを話しているときに限って 物語を聞いているみたいと言われるのは心外だけど ある意味では毎日が休暇中の冒険のようなもので そこへ嘘を混ぜるとちょうどいい温度になり すっと溶けてゆく 淹れたてのブラックコーヒーに 角砂糖を落とすように 誰に…

944

急に寒くなったような気がしていたけれど もう9月も半ばだった 次の満月のころにはニルゲンドヴォにこの冬 最初の雪が降るだろう そして遥か北の山に落ちた雪のひとひらは枯葉のうえで 春がくるまでじっと溶けずに眠る

943

輝いていた10代が懐かしく見えるのではなくて 今よりもマシだったというオチ 悪い報せが無いのはいいことだ みんなが満足しているなら 他人の不幸を探そうとはしないから 隣の芝生に除草剤を撒いたのは 見たこともないぜんぜん知らないひとだった ベランダか…

942

プラトニックであることに理由も意味もない すぐそこに違う世界が並行して存在している かもしれない幻想 21世紀とは思えない砂埃の舞う荒地で 彼は砂糖黍の茎を歯で齧っている それは幼かったころの夢 より良い日々を送れただろうと期待するだけの

941

化粧水とクリーム それからリップクリームを買うこと 色んなのを試したけど 結局 香りとテクスチャーが重要で 効果というのはどれも同じくらい良かったから 安いのを幾多も買ってあちこちで使って失くすよりずっといい 香りはするのが良いは限らないけれど …

939

芝生に朝露が残っていたので そのまま靴を脱ぎ 裸足のままで歩いた 湿った草の温度と動物の匂い 太陽が遠くの山の端から登りだしている 静謐と黎明のひととき 鮮やかさはないが 色彩が明瞭であるということ 空は澄み渡り 雲のひとつもない

938

遠い空に残っている積乱雲の白さが 夕陽で赤く染まり ほんの少し秋色になっている 田畑はもう豊穣のとき 農夫たちは健やかに育った稲穂を刈り取りにゆく かつてからここいらは やはり穀倉地帯であった 肥沃な土地であったのだろう 変わらずに人々が暮らし続…

937

旅券を申請しながら あのひとの故郷のことを思い描いた 午後の陽射しは残暑のそれで しばらく坂道を歩いただけですっかり消耗してしまったが 休む暇もなかったので歩き続けた わたしが知らないあの人の暮らした町 あの人もまた わたしを知らない 名前を奪わ…

936

何処へでも行ける 赤いトランクと革のブーツで 少年のように 時刻表をめくらなくても簡単に時間は調べられるし 電話をかけなくても予約だって出来る もう随分まえから大人なのだった

935

ほんの少し生きやすくなるために自分を殺す 清流を流されるのは気持ちいい 行く先さえ定めてあれば ときには流れてゆくのも悪くないから 楽にして 「あの時死ねばよかった」と考えたことのあるひとですら 今まさに死にそうなひとに「もっと頑張れ」と言う 恐…

934

薄皮一枚で包まれた果肉は滑らかなかたちを保ったままで発酵していた ナイフを差し込むと紅い皮の間から膿のように変色した実が溢れ出し 食べられたものではなかった 熟れどき を見極めるのは難しい 少しだけ残った白い実を舐めるように噛むと 眩暈をおこす…

933

満月が近づいている 光が明るさを増すたびに眠気は酷くなり 温かな泥濘にはまるように眠気は激しくなる それは春の湿地帯で まだ虫はいない 花の香りはほんの少しだけ漂うような世界 誰も知らない場所に 初潮のあったときのことをわたしはよく憶えていて そ…

931

不思議な色の果物を買った 臙脂色の洋梨なのだけど レジで支払いの順になったとき 店員の女ときたら きょとんとした顔で けれど僕にもそれが何かわからなくて 多分洋梨だと思いますと答えた 僕はいったい何を買ってしまったんだろう?

929

物憂げな表情で遠くを眺める女が着ている白いカットソーは 滑らかな身体のラインを描き タイトスカートを履いたヒップへと続く 限りなく透明な色に見える肌色のストッキングで包まれた脚は黒いスムースレザーのハイヒールを履き 凛と佇むが その踵にはわずか…

928

蝉はもう一匹も鳴いていない この辺りはアブラゼミしかいなかった ビルの間に僅かに残った空き地から生まれて 死んでいったのだろうか 夏の終わりに秋が訪れることに いつまで経っても慣れることが出来ない

926

美容院の予約をすること 家計簿をつけること 手紙を送ること それから A市へゆくための交通手段 (最も安全で迅速に かつ安価な方法)を調べること 寒くなる前に行かなければならない なにせ首都より北へ行ったことがないから どれくらい寒いか想像もつかない…

925

夏の弔いに似た残暑の陽射しが照り続くけれど 終わりの日は近いので もう綿の木は育たずに 枯れてその実を爆ぜさせるだけ いまから10年以上まえのことになるが 私たち家族が夏中乗り回していたボートは 「キイロ4号」という名前がついていた 隣に住んでいた…

923

20年来の友人がくれたルージュは 信じられないほど赤くて 一体どんな顔に塗るんだろうと思ったけれど 彼女は 貴女につけてほしいのと言った 思いのほか馴染んだ真っ赤なルージュは はじめ 娼婦のような妖艶さが感じられたのに ほんとうは気の強いマドモアゼ…

922

新しい想い出を予約して 薄くて折れやすい紙を買った 靴は足に合わずに痛む 暇を潰すのに忙しいから 近頃すこしも眠れやしない ただの遊びだとか本気だとか こちらの気持ちも知らないで どうしてそんなに自信があるんだろう

921

長いエスカレーターをくだりながら 彼の頬に唇をつけると 日焼けした肌に口紅のあと ザマアミロなんて思わない そんなことをしても仕方ないから ごめんねと笑いながらハンカチで拭った ジムノペディの旋律がふいに流れて もういない人 永遠に不在である青年…

919

打たなければ博打は勝てない 卵を割らずにオムレツが作れないように リスクをいかに低くするかが問題 しくじりが傷にならないなら なんぼでも打てばいい 弾がなくなるのと 制限時間がくるのと どちらが先に来るかもうそろそろ見えてきているならば 迷うこと…

918

よせばいいのに 昔のことを思い出してしまう でも本当に振り返るべきではないのだ 馬鹿馬鹿しい 空白の日々を恨むなよ なんとか生き延びたのだから

917

白と黒が混ざった糸で織られた布のワンピースを買った サイズは00という冗談みたいな表記で それは単にわたしが小さいからなのだけど なんだか存在していないんじゃないかしらという気分になる ゼロですらないなんて

916

かみをさがすということ もうほとんど泥沼 かつてそこいらは墓地であった 丘があったかどうかは知らないが 地下に泉はあった わたしは蟻の巣のように張り巡らされた地下通路を縦横無尽に歩き回り 建屋と建屋を結ぶ長い架道橋を渡り かみをさがす 不毛なこと…

915

たとえば溜まったストレスをカラオケで発散するとか 年に一度友達と夢の国を訪れるとか 大好きなアイドルグループがいて ツアーで追いかけたり 新しいアルバムが出たら予約しに行ったりとか そういうことを 心から楽しめるというのが羨ましいし 可愛いものや…

914

同窓会に誘われないので たぶんもう死んだことになっている それがいいと思う 夏の休暇を無為に過ごしてしまったことを悔いることも出来ないほど 身体が重たいのは眠気のせい 泳げば疲れて楽にもなるだろうか あなたの退屈を少しはしのげていただろうか

913

眠っても眠っても足りない まとわりつく湿気のなかでわたしはとても疲れている 昼 黙祷をした iPhoneの時計よりサイレンは30秒遅れて鳴った 今までで一番涼しい日だった

909

酷い眩暈を感じて舞台のある講堂を抜け出し 外へ向かった 近道をしようと礼拝堂を通ろうとすると 神父さまたちが会話をしていたので諦めて長い廊下を歩き ようやく広場へ出ると雨が降っている 吐き気と悪寒 上演時間が迫っているというのに 逃げ出しても仕方…

908

嵐の尻尾から雨が降り続いている 橋が流れてしまったので 人々は渡し守に頼まねばならないのだが その舟も出すことが出来ない 泥水は水車小屋を押し流し 材木屋の木々を筏なしで下流の港町へとやり それでもまだ止まることを知らなかった 子供も大人も 誰も…

907

壊れた靴を履いて気取って歩く なんてことはない 壊れていることを忘れてしまえば いつもと同じように歩ける たぶん 新しいハイヒールが必要 もう別にレッドソールでなくて構わないし 品の良い黒い革製の 足に合うものが良い 何処までも歩いていけるような …

906

逢引をした夜に神さまはメールをくださるので わたしは決心が揺らいでしまう それでも 躊躇うことなく傷ついた身体を差し出すのだろうか 酷いやつらをまとめて縛って 今度こそ物置の奥へしまってやろうと思うのに なぜかしら とてもきれいで壊すことが出来な…

905

嵐が来る夜 ニルゲンドヴォには池が現れる それは暗闇のなかで静かに広がってゆく 失くしたはずのボタンが あぶくのように浮き上がってくる それは雪の日に母が着せてくれたウールのコートについた黒い木のボタン 公園で友達と掴み合いの喧嘩をしたとき 引き…

903

歯科医院へ行った べつに痛むところも 悪いところもなかった 2年前より歯茎の具合が良くなったと言われたが理由はわからない 2年前が酷すぎたのかもしれない 親不知は生えないままだった 欠損することもなかった 何年か前にもっと歯列を美しくしたいと訴える…

902

血と肉と引換に愛を切り売りするので 季節感がないことを許してほしい つまり何時迄も春であるということ 色を失った男の孤独を塗り潰すには百日紅が必要だ でもきっとわたしは山に行かない 海へ泳ぎに行きたいから

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日に焼けた男の子が家出をして 72時間の自由を手に入れた 遅すぎた思春期と長すぎた反抗期のすえの短い夏休み 彼女が歳下の恋人と早い結婚をしたのが何月何日 何処の教会だったかなんてどうだっていいし 適齢期の夏 死に方以外に興味が無かった 蝉は地上に出…

899

キャッチャーになりたかった ライ麦畑であの子を抱き止めることが出来たらよかった ハンドバッグの底からひしゃげたチキンサンド コンビニの袋に入ったままで くすんだ黄色のハニー・マスタードソースがはみ出してる それはこの夏とても流行している少し長め…

898

書かれなかった言葉だけを集めたことする 見なかったことにした現実 聞かなかったことにした秘密 言わなかったことにした告白 愛さなかったことにして肉体を貪り喰らうのが正しい世界で 虚構は崇高な言葉として 人々の心を震わせ 涙を誘う美しい物語となる …

897

過ぎていった日々の匂いは 届いて一番にひらく新聞紙のインキ 洗剤と糠床が混じった井戸端 燕脂と白と黄色の小菊 水に浸かったその茎のぬめり 麦酒または日本酒 焦げた肉と玉蜀黍 藻が増え過ぎた金魚鉢 汗は最も身近であるのにあまり思い出さない

896

髪を切った 恐らく誰も気付かないだろう それでも維持することは容易ではないのだ 美しいまま保つということ 庭の植木と同じこと あのひとはわたしの髪を指ですくので 滑らかにしておかなければならない 別に絡まったっていいけど あのひとに撫ぜてもらいた…

895

あまりに広い空の青さから流れるようにして 泉に潜った灼熱の街で なにも失うものが無かった 誰に必要とされることもなく ただいたずらに 責任を必要としない自由のなかに生きていた あの心細さ 未来を描くことすら出来ない空腹 砂の城を築くには水が要る 燃…

894

海岸沿いを裸足で歩きたい 湖や川ではなく 潮風の吹きつける海でなくてはならない 対岸が見えない場所を求めている 陽が沈み 蒼さが世界を包み込む時間を過ごしたい 息を止めて 水のなかで眼を開けるように

893

緩やかに溶けていった氷砂糖のようにソリッドな夢は 三日月よりも鋭くて甘い 7月 望めばなんでも手に入る 夏の魔法をかけたから 禁じられた愛すらも まやかしのひとときならば オレンジ色の鞄を持って 街に出かけよう 薄荷のキャンディを舐めながらハイウェ…

892

穏やかな眼差しが獣の眼光を放つと 眩しさのあまりわたしは眼を閉じてしまう 柔らかな頬 滑らかな皮膚 そのしたで動く筋肉 あのひとはわたしの神さまと瓜二つで でも少しも似ていない アルカリと酸 北極と南極 砂糖と塩 そう本当に少しも似ていない 鋭い眼差…

889

夜 川辺の砂は湿り気を帯びて光る 橋のしたで わたしたちは罪を犯す 生温い風を感じながら どこへも行くこともないで

888

骨のように白い髪飾りを買った 鼈甲色と迷ったので 隣にいた男にどちらが好ましいか尋ねると 彼は迷わずに白を指差して 女の子には白いものを身につけて欲しいんだと照れ臭そうに答えた わたしは彼らが求めるように振る舞うことが好きなので 白い髪飾りを選…

887

誰も彼もが悪いひとばかりなので この茶番 すこしも面白くない 彼女が彼女のことを それほど好きじゃないひとしか愛せないのは どうしようもなく不幸なことではあるにせよ 誰からも愛されないよりも 幸福なことなのだろうか 神様はあなたが思うよりずっと 愛…

886

退屈しのぎだったはずの恋煩い あるいはもう 死に至る病 その白いブラウスはまだ汚れてはいないのではなく 漂白されただけ つまり汚れたら洗えばいいし 破れたら繕えばいい そんなに難しいことじゃない 元に戻すことなんて なにも出来やしないんだから

885

簡単に揺らいでしまうのではなく 強く愛しすぎてしまっただけで 彼女はわたしを魔性の女だというけれど なんてことはない 他人より執念深いだけだ抗うことを諦めて深淵に飲み込まれてゆくのか 痛みを忘れた肉体から 流れ出た血液にヘモグロビンが足りないこ…