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ヴォトカ流れる河のほとりで

Das Tagebuch der Lily Mercury

Fiktion

775

他人の痛みを解ったような気になる高慢さと 理解させようとする傲慢のあいだで 愛するひとの望む答えを さも心からの願いであるというように思いながら生きることを 幸福なのだという 「でもそれって本当なの」 「もちろん」 「あたしがどんなに傷ついている…

774

お互いに名前を覚えていなかったので 彼はわたしを "du" と呼び わたしもやはり "du" と呼んでいたのだった 人称代名詞や 愛称ではなく 今更確認して名前を呼ぶのはなんとなく躊躇われたので あるときベッドの上でわたしは "Herr Niemand" と呼んだら 彼は驚…

773

わたしはいつか あのひとがわたしではない女を幸せにしたとき 妬まないで済むようになるべきで それはわたし自身が幸せになるということであると思うけど あのひとなしで幸せになるなんてことがあるのか疑問だし あのひとに関わる人々の関係性はともかく わ…

772

例えば記憶を上書きするなんてことは容易で 元から覚えが悪いから消去してしまうことだって可能ではあるのだけど 今のところまだ約束は守っている 誰と指切りをしたわけでもないわたし自身との約束 守っても破ってもどうにもなりはしない秘密

771

雨で布団が干せなかったので そのままベッドの上で過ごした 夕方 夢の中にピンク色の髪をしたあの子が出てきてとても嬉しかった 一緒に電車に乗ってたんだよ ほんとうに可愛かった あと20センチ脚が長かったら わたしもヴィクシーのエンジェルになりたかった…

769

煤けた桃色の髪飾りを買った 花のかたちをしたクリップでとても愛らしい フランス製の髪飾りはどれも普遍的な可愛いさがあり 他にも鼈甲色をしたリボンのかたちのバレッタとか 三日月みたいな細いピンとか 10年くらい使っても少しも痛んでいないし 流行遅れ…

768

誰に聞いても好青年と云われるひとがいて わたしは彼に会ったことがないから 形而上の存在となった好青年である彼に憧れ続けている 本当に誰からも悪い評判を聞かなくて 彼を知るひとはただ「好青年だよ」という (時々文頭に 眼鏡の という外見的情報もつく)…

767

近頃とても疲れている 春が来たらニルゲンドヴォ村へ帰ろう 緑きらめくわたしの故郷 もうそれほど多くのひとは暮らしてはいない 見離された最果ての土地 名前を奪われ 地図の上から消え去った場所 花咲き乱れたる最期の楽園 誰もそこから生まれないから 愛も…

766

春の不眠は悲惨だ わたしは薄暗い部屋のなかにいて あのひとの面影を探してばかりいる 夢から覚めれば何時ともわからない闇のなか それの繰り返し 本当に嫌になる 寂しさで眠れないなんて嘘 あのひとにはもう夢でしか会えないのに

765

よく晴れていたので 部屋の隅に布団を敷き 鎧戸を締めて寝ていた 寝ているときも含めて12時間なにも食べないのをプチ断食と呼ぶらしい 昨夜はすっかり吐いたあとで12時間以上寝たし 普段から週末はよく寝ているのだった 効果があるのかどうかは知らない ただ…

763

初めて爪を真っ赤に塗った日 ママは「まだ早すぎる」と言い それから何年かして塗ったら「もっと若いひとの塗る色だ」と言った この非の打ち所がない矛盾 或いは真っ赤な爪が最高に適したほんのわずかな一瞬を見逃した事実に対して わたしは「似合ってるんだ…

762

「性交をしていると段々自分の身体がサカナになってゆくような気がする 光が届かない深い奥底は 暗く冷たく でもそれがとても気持ち良くて もっともっと泳いでいたくなる 息継ぎは接吻 わたしはサカナになるから 息継ぎをしなくても呼吸が出来るはずなのだけ…

761

かつて好きだったひとからのメールに添付された一枚の画像は 彼女の名前が記されたエコー写真で 既に明確な線で現れている胎児の姿は自然の神秘そのものだった なんと素晴らしいことだろう 彼女が母親になるということは! 「まだ男か女かわからないの」と彼…

759

快速電車に乗ると 既に三人組の少年がボックス席に座り 菓子パンとコーラを食べながら楽しそうに話をしている おそらくまだ中学校の卒業式を終えたばかりの年頃だろう わたしは彼らと同じボックス席の通路側に座った ひとりが窓側へ詰めて座ってくれたからだ…

758

雨の匂い それももう 春の雨の匂い 百貨店の封緘が付いた包みをもらった 明日は休みでいないから と そのひとは言った 家に帰って開けると とても感じの良いドラジェブルーのタオルハンカチが入っていた 大抵色に迷ったらピンクを選ぶけど もしも彼がブルー…

757

お使いに出て饅頭を買った ひとつふたつは小さくて荷物にもならないが 50個となると やたらと重い 前に外郎を買ったときもかなり大変だった 自分で持てないほど沢山買ってはいけないというのは当然のことだが お使いとなればそうもいかないのだった

756

あの日わたしはまだ田舎にある ちいさな事務所兼店舗で働いていて それなりに寒い日だったと思うし 実は暖かだった気もする Kはまだ生きていたけど 既に何年も連絡を取っていなかった 百貨店の店内放送が黙祷の時間を告げる あの日わたしは職場で 机の下に…

755

騙し合いのような関係性に終止符 愛と性欲を混同するのはやめて 保護と支配は双子のように似ていて異なることを かつてはあなただって知っていたはずなのに

754

北国で思春期を過ごしたので 少し肌寒くても 晴れたらすぐ外でお茶を飲みたくなる 冬であってもそうなのだけど 太陽のひかりを浴びながら過ごすひとときは幸せだ 野点には何度か参加したことがあり 梅林でお薄を頂いたときは楽しかった 天気はあまり良くなか…

753

「男に媚びるな」の言葉を間に受けたら「塩対応」とディスられた わかる わかるよね あたしにはわからないけど 「××の女性は個性的でお洒落」とか「日本の女性はここが変」とか うるさいな それが個性でしょうが どうせわかりっこないと思って それが総意で…

752

ラズベリーを乾燥させ 粉にしたのが入ったチョコレートを食べている 今年の冬は例年以上にチョコレートをもらったので 毎日食べてもまだ残っている 嬉しいことだ 子供の頃 5歳になるまでチョコレートを食べることを禁じられていた 虫歯になると信じていたの…

751

視界が曇り 靄が見えると思っていたら強い雨が降り出したので 街行く人々は慌てて走りはじめた まるで夏の夕立みたいだ! 窓硝子に打ち付けられた雨粒はどんどん流れて 滝のように激しく降っている しかし長くは続かないだろう 西の空は既に明るくなっている

749

透明の袋に入った芽キャベツは青虫のように艶の無い緑色をしていて 張りのある丸いかたちをしている まるで春の希望を一身に詰め込んだように! 冬に渇望した新鮮な野菜を味わうレシピ 芽キャベツの和え物 ひとつまみの塩を入れた水を鍋にたっぷり 沸騰させ…

748

週末なので爪を磨こうと思っていたけれど すっかり遅くなってしまった 薄いヴァイオレットのヴェルニは確かにビオラの紫色をしていて 塗ると爪が花弁みたいになるのだ しかし出来れば明るい時間にしたいことではある ヴェルニを塗るということは 料理も庭仕…

747

北国に暮らす魔女は齢をとらない 自分の誕生日を山奥の洞窟に棄てて凍らせてしまったから 彼女は永遠に少女のままである それゆえにいつまでも若々しく可憐であるのだが わたしの母つまり魔女の姉であるのだが ベッドで朝食を食べて祝い 一族で集まってケー…

746

卒業式の日が雨だったか 晴れていたかなんて覚えていないし みんなどうでも良かった よくある話だけど学校が嫌いだった 興味もない歴史を覚えたり (ギリシア神話はロマンティックだと思う) よくわからない計算をしたり (解なしってどういうこと) 仲良しグル…

745

悪魔が契約を見直そうという これまでの業績を鑑みるに 僕の腕前は魔界での評価がすこぶる高いらしい 名誉ある地位 庭付き一戸建て 自家用車 あたらしい家族との生活 「彼女 早くドレス着たいんじゃないの」と悪魔が囁く 「悪い話じゃないと思うよ このご時…

744

買わない理由がないのに我慢したいから 大好きなA君が好きじゃないって言ったらとか 憧れのB先輩が流行遅れだって笑ったらとか いろいろ考えてはみたけれどそれでも欲しいし もし苦手なC先生が似合うと褒めてくれたなら 彼は最高にセンスが良いひとだって思…

743

あなたの朝陽とわたしの夕陽を共有している昼過ぎ ひかりは濁りながら沈んでゆく 知らない歌ばかり聴こえる部屋で 花瓶から溢れ出したちいさな花は秘密の色をしていて可憐だ わたしは窓から渡り鳥が飛び込んでくるのを待ちわびている 寒さで指先が冷えるのも…

742

街はもう春風が吹くたびにショーウィンドウのレースが揺れている 新しい下着が欲しい レースで出来たワイヤー無しの ああ それは何の役にも立たない! ただの飾り 誰に見せることが無くたっていい 水色のレースで作られた下着が欲しい わたしが楽しむためだ…

741

女給時代に支配人が言った「アイキューハチヨン」という言葉が忘れられない 今度は 騎士団長が殺されるというし わたしは車屋でだって働いた 鈍間 白痴と罵られ 神経がすり減ってゆく 「お客さんにねぇ 話ふられたら返さなきゃ駄目だよ ちゃんと新聞読んでさ…

739

日々どれだけのことを憶えて 忘れてしまうのだろう 大して困ってもいないけれど 例えば記念日はほとんど忘れることがない でも西暦が覚えられない 歴史の試験ではそちらの数字が重要なのに そして道順 一度歩いたところなら迷わずにたどり着ける でも人の顔…

738

詩だとか氏じゃないとかもう死んだとかどうだって良いなら 何も言うべきではないかもしれない そもそも見ても聴いてもいないのだ たぶん誰だって言葉を選んで大切に扱っているであろうことを前提に思いたい でも大切にするってどういうことなんだろう わたし…

737

北の果てに暮らしているので春が来るのが遅い 本当はもう 黒いメルトンのロングコートなんか着たくない ブーツじゃなくてパンプスで歩きたい 水玉模様のワンピースにイタリア製のコットンカーディガンを合わせて街へ出たいのに外が寒い 花瓶に生けたアネモネ…

736

14日ぶりに献血へ行った 初めて行く場所は少し緊張するのに やることは同じだから不思議な気分になる 痛いのは嫌いだけど インプラントを埋めたときも 自傷をしたときも 大して痛いとは思わなかった ただ 金属が皮膚や身体の一部を貫通するのはなんとなく怖…

735

泳ぐのを辞めた人魚の貝殻ビキニをつけて 無人島で過ごす7日間 楽園のようだった世界が地獄に変わる孤独 今すぐ単為生殖したい 白い砂の眩しい浜で 泣きながら吐き出す無精卵で血が流れる なんという悪意に満ちた秩序なんだろう

734

S駅を8:00丁度に出発し それから汽車を乗り換え 西へゆく新幹線に乗った 指定席は二列シートの窓側 海は見えたり 見えなかったりする ほとんど山の際を走るから 胎内回帰願望が叶わないなら 原点回帰を実現させるほかどうしようもないので かつて恋に落ちた…

733

目覚ましを止めて うつ伏せになり 膝をついたら背骨を伸ばし 肩をならす そのまま手をつき おでこを枕につけ 両足をゆっくり上げる 脚を揃えてまっすぐに そのまま60数える Une, deux, trois, quatre, cinq... ... soixante. 足をゆっくりおろして 毛布から…

732

「神さまの前で跪き告白する 懺悔する 祈祷する あの人が呼ぶ名前だけが真実で 愛が信仰のすべてだとしたら 何にもまして浄福なことはないのに わたしはいまだにヴォトカ流れる河のほとりで 対岸に消えたひとの面影を追い続けている 河の水が乾いて その姿が…

731

刻んで溶かして冷やして固めて かけた手間を愛情と呼んで 押しつけるのやめて ハートの砂糖 シルバーの粒 ココナッツ アイシングで描く彼女の気持ち 放課後の部室で試食しようと言って手作りチョコレートを幾つも食べた 雪の日 ね〜美味しいよ うん 絶対大丈…

729

日曜日の身体を軋ませながら 37.1℃の熱が通り過ぎてゆく 湖岸道路沿いには菜の花が咲き始めたらしい 去年買ったセーターは空色の毛糸で編まれていて たぶん黄色い花畑に似合うだろうと思う

728

彼女も好き 彼も好き でも同時にふたりは愛せなくて それ以上でもそれ以下でもない 男も女も国籍も様々な者が集う場所で 互いに気に入った者同士 口付けを交わした彼女は欲望に忠実で ある意味では誠実だった 無理矢理に受け入れる義務もなく あらゆる感情を…

727

尼僧の顔や全身を覆うベールというのか 黒い柔らかな布の衣装 それは慎み深く敬虔な色をしている 彼女はまだ若い とても若いが何処か諦めたような 憂いが漂う表情をしている 色素の薄い肌は瑞々しく 瞳はやはり薄い鳶色で いや 蒼色だったかもしれない 鼻の…

726

コンディトリーのショーケースに並べられたケーキ ピンクや緑色のマジパンで包まれたカラフルなバーケルセ そして山積みになったメレンゲ そう ひしゃげた雪玉をいくつも重ねた山に似たメレンゲが一番好きだった 卵白と白砂糖で作られた白いお菓子 柔らかく…

725

引き寄せるのか 引き寄せられたのか 忘れていたことでも必ず果たされること 予め定められたわけでもないのに 何年 何十年ごしでも生きているかぎり 願えば叶うのかもしれない 記憶の片隅で求め続けていたのならば 或いは実現させることが出来る そして恐らく…

724

寝台のうえ 電燈のした 染みだらけの天井 乾いたが しなやかな肉体 短く整えた爪の指でおまえの髪を梳く わたしは毛布をかけながら 頸だけを動かして口付けを交わす 冬のおわり 春のまえ まだ固い花の蕾が幾多も増えたけれど 未だに庭の雪は白いおまえの指が…

723

感冒が蔓延しているので部屋のなかから ひとり またひとりと隔離されてゆく 酷い熱が出たという男は 今朝ようやく帰ってきたばかり 学生生活も残り僅かなとき 恋人の母親が還らぬ人となり 彼の実家がある村 -そこは初めて訪れる場所であり 彼自身も久々の帰…

722

白っぽいぺたぺたした水気の多い雪 濡れるから嫌だなぁと足早に石畳を歩き 門扉を開けると 先生が男の人と何やら話していた挨拶を交わすやいなや これは霙というの? と 先生が尋ねるので はい霙です と答えると ふぅん と彼女は眼を丸くし 男の人はほらね …

721

お告げはないけど旅行に行こうと思う 思い立ったが吉日 行き先はわからない 神さまは何処でもいいよっていうし ダーツが無いから阿弥陀籤 紙と筆記具だけで出来るなんて冴えてる ぜんぶ雪のせいにしたい ぜんぶ

719

服屋の店員は何処かの劇団の座長みたいに慇懃な笑いかたをしながら 手もみをしていたけど 給料3ヶ月分くらいのドレスは 本物の毛皮みたいに毛並のよいプリントで とてもかろやかな生地をたっぷりつかい 歩くたびに裾からアンダースカートのレースが覗くとい…