Fiktion

913

眠っても眠っても足りない まとわりつく湿気のなかでわたしはとても疲れている 昼 黙祷をした iPhoneの時計よりサイレンは30秒遅れて鳴った 今までで一番涼しい日だった

909

酷い眩暈を感じて舞台のある講堂を抜け出し 外へ向かった 近道をしようと礼拝堂を通ろうとすると 神父さまたちが会話をしていたので諦めて長い廊下を歩き ようやく広場へ出ると雨が降っている 吐き気と悪寒 上演時間が迫っているというのに 逃げ出しても仕方…

908

嵐の尻尾から雨が降り続いている 橋が流れてしまったので 人々は渡し守に頼まねばならないのだが その舟も出すことが出来ない 泥水は水車小屋を押し流し 材木屋の木々を筏なしで下流の港町へとやり それでもまだ止まることを知らなかった 子供も大人も 誰も…

907

壊れた靴を履いて気取って歩く なんてことはない 壊れていることを忘れてしまえば いつもと同じように歩ける たぶん 新しいハイヒールが必要 もう別にレッドソールでなくて構わないし 品の良い黒い革製の 足に合うものが良い 何処までも歩いていけるような …

906

逢引をした夜に神さまはメールをくださるので わたしは決心が揺らいでしまう それでも 躊躇うことなく傷ついた身体を差し出すのだろうか 酷いやつらをまとめて縛って 今度こそ物置の奥へしまってやろうと思うのに なぜかしら とてもきれいで壊すことが出来な…

905

嵐が来る夜 ニルゲンドヴォには池が現れる それは暗闇のなかで静かに広がってゆく 失くしたはずのボタンが あぶくのように浮き上がってくる それは雪の日に母が着せてくれたウールのコートについた黒い木のボタン 公園で友達と掴み合いの喧嘩をしたとき 引き…

903

歯科医院へ行った べつに痛むところも 悪いところもなかった 2年前より歯茎の具合が良くなったと言われたが理由はわからない 2年前が酷すぎたのかもしれない 親不知は生えないままだった 欠損することもなかった 何年か前にもっと歯列を美しくしたいと訴える…

902

血と肉と引換に愛を切り売りするので 季節感がないことを許してほしい つまり何時迄も春であるということ 色を失った男の孤独を塗り潰すには百日紅が必要だ でもきっとわたしは山に行かない 海へ泳ぎに行きたいから

901

日に焼けた男の子が家出をして 72時間の自由を手に入れた 遅すぎた思春期と長すぎた反抗期のすえの短い夏休み 彼女が歳下の恋人と早い結婚をしたのが何月何日 何処の教会だったかなんてどうだっていいし 適齢期の夏 死に方以外に興味が無かった 蝉は地上に出…

899

キャッチャーになりたかった ライ麦畑であの子を抱き止めることが出来たらよかった ハンドバッグの底からひしゃげたチキンサンド コンビニの袋に入ったままで くすんだ黄色のハニー・マスタードソースがはみ出してる それはこの夏とても流行している少し長め…

898

書かれなかった言葉だけを集めたことする 見なかったことにした現実 聞かなかったことにした秘密 言わなかったことにした告白 愛さなかったことにして肉体を貪り喰らうのが正しい世界で 虚構は崇高な言葉として 人々の心を震わせ 涙を誘う美しい物語となる …

897

過ぎていった日々の匂いは 届いて一番にひらく新聞紙のインキ 洗剤と糠床が混じった井戸端 燕脂と白と黄色の小菊 水に浸かったその茎のぬめり 麦酒または日本酒 焦げた肉と玉蜀黍 藻が増え過ぎた金魚鉢 汗は最も身近であるのにあまり思い出さない

896

髪を切った 恐らく誰も気付かないだろう それでも維持することは容易ではないのだ 美しいまま保つということ 庭の植木と同じこと あのひとはわたしの髪を指ですくので 滑らかにしておかなければならない 別に絡まったっていいけど あのひとに撫ぜてもらいた…

895

あまりに広い空の青さから流れるようにして 泉に潜った灼熱の街で なにも失うものが無かった 誰に必要とされることもなく ただいたずらに 責任を必要としない自由のなかに生きていた あの心細さ 未来を描くことすら出来ない空腹 砂の城を築くには水が要る 燃…

894

海岸沿いを裸足で歩きたい 湖や川ではなく 潮風の吹きつける海でなくてはならない 対岸が見えない場所を求めている 陽が沈み 蒼さが世界を包み込む時間を過ごしたい 息を止めて 水のなかで眼を開けるように

893

緩やかに溶けていった氷砂糖のようにソリッドな夢は 三日月よりも鋭くて甘い 7月 望めばなんでも手に入る 夏の魔法をかけたから 禁じられた愛すらも まやかしのひとときならば オレンジ色の鞄を持って 街に出かけよう 薄荷のキャンディを舐めながらハイウェ…

892

穏やかな眼差しが獣の眼光を放つと 眩しさのあまりわたしは眼を閉じてしまう 柔らかな頬 滑らかな皮膚 そのしたで動く筋肉 あのひとはわたしの神さまと瓜二つで でも少しも似ていない アルカリと酸 北極と南極 砂糖と塩 そう本当に少しも似ていない 鋭い眼差…

889

夜 川辺の砂は湿り気を帯びて光る 橋のしたで わたしたちは罪を犯す 生温い風を感じながら どこへも行くこともないで

888

骨のように白い髪飾りを買った 鼈甲色と迷ったので 隣にいた男にどちらが好ましいか尋ねると 彼は迷わずに白を指差して 女の子には白いものを身につけて欲しいんだと照れ臭そうに答えた わたしは彼らが求めるように振る舞うことが好きなので 白い髪飾りを選…

887

誰も彼もが悪いひとばかりなので この茶番 すこしも面白くない 彼女が彼女のことを それほど好きじゃないひとしか愛せないのは どうしようもなく不幸なことではあるにせよ 誰からも愛されないよりも 幸福なことなのだろうか 神様はあなたが思うよりずっと 愛…

886

退屈しのぎだったはずの恋煩い あるいはもう 死に至る病 その白いブラウスはまだ汚れてはいないのではなく 漂白されただけ つまり汚れたら洗えばいいし 破れたら繕えばいい そんなに難しいことじゃない 元に戻すことなんて なにも出来やしないんだから

885

簡単に揺らいでしまうのではなく 強く愛しすぎてしまっただけで 彼女はわたしを魔性の女だというけれど なんてことはない 他人より執念深いだけだ抗うことを諦めて深淵に飲み込まれてゆくのか 痛みを忘れた肉体から 流れ出た血液にヘモグロビンが足りないこ…

884

早朝 エンジンの音で目が覚めたので カーテンを開けるとインターホンが鳴った 新聞配達人なら無言で立ち去るのだけれどと 窓を開けて階下を覗くと 青いコンバーチブルに乗った夏が来ていたので 手を振ってすぐに行くから と 慌てて階段を駆け下りて扉を開け…

883

かすかな濁り ひかりは揺らぎながら砂のうえを流れる ゆっくりと呼吸にあわせるように 腕を前後にかきながら 脚を折り畳んだり 伸ばしたりして水のなかで前へ進む運動を 幼いころから教えられていて いまでは滅多にやらなくなっても ひとたび脚を砂地から放…

882

炎天下のコンクリートジャングルで ひとの波に乗るのも 雨に濡れるのも慣れて どこに行くっていうの

879

この夏がいつまでも続けばいいのに 終わらなければいいのに 上手くいってもいかなくても 間違いなんて そんな 誰も正解を知らないことを

878

一瞬で通り過ぎてった曖昧な感情のこと 愛でも恋でもない不確かな けれども悪くはない 熱帯夜に吹く湿った風のような温度 なにも望んではいけないこと 花が揺れるただその一瞬だけを尊ぶことを忘れないで 彼らの手は大抵わたしよりも平たく 大きなかたちをし…

877

あなたのことを忘れそうになる 狂いそうなほど愛していたはずなのに いとも容易く 何度会っても あなたの顔を憶えることが出来なかった そのような不透明さは あなたという存在をより一層神秘的にさせていたのだけど いまではもうほとんどなにも思い出せない…

876

日曜日 友達に会えない 嵐の日 ずっとまえに解散したバンドの音楽を聴いている 初めて聴いてからもう随分経つのに すこしも古くならない いつまでも好きな歌 生きているひとも もういないひともいて それでも想いだけが残っている 理解することは出来なくても

875

なんといえばいいのか 限りなくピンクに近い菫色のヴェルニを持っていて 瓶のなかで揺らぐときには確かにパールがかった紫色だのに 塗ると愛らしいピンクに見える それは 試さなければ絶対買わないような色で なんとなく惜しい わたし以外に誰もその魅力に気…