Wirklichkeit

980

誰のことも忘れていくのだ 嘘も本当もないまぜにして 傷は出来るだけ浅くなるように 痕が残らないようにしなくてはいけない なにが最善であるか 犯した罪を償うため最良の方法を彼は苦心して選び出す もはや手遅れである事実を目の当たりにして それでも生き…

970

不確かな夢の続き 赤い花も 赤いスープも 血のようだと言われるが わたしはそれらを好んでいる 望んで名乗ったわけでもなく その姿から名付けられただけで 名前の音の悪さから忌み嫌われることの理不尽さを忌々しくおもう 赤い花がどれもこれも炎のようだと…

960

北の町で暮らす叔父から小包が届いた 今年も雪が降る前に河へ行ったらしい 特に手紙らしいものも入ってはいなかったけれど 彼は魚を捕まえるのがとても上手いのだ 髭もじゃで 縮れた長い髪を束ねた大男だから私や兄が幼いころは ずっと 熊さんと呼んでいた …

950

忘れたころにまた会って傷ついて 少しも学ばない 誰も笑うことすらしなくなって 違う日の話をする そしてやっぱり忘れていたことを思い出して後悔する 大したことじゃない あれもこれも ほんの擦り傷で絆創膏すら要らない なのにいつまでも膿が出る いっそ血…

940

昨日みた夢には 10年くらいまえに親しかったひとがたくさん出てきて 少し懐かしいような気持ちになったけど 目覚めたところで 誰の連絡先も知らないことを思い出した 苗字が変わってゆく女たちのうち 何人かは元の名に戻した ニルゲンドヴォでは決してありえ…

930

私たちのこと誰も知らない街へ行きたいね なんて どうだっていいんだけどさ 初めから楽園なんて無かったわけだし ねぇ あと数日のうちに君はまた何処かの海へ行ってしまう けれどもわたしは港へ行かない 旅券は間もなく有効期限が切れて使えなくなるし そも…

920

夏休みが終わっても 寂しくない もうずっと友達だから会えなくても平気 なんて嘘 季節が変わっても一緒にいられたらいい どんどん夜が長くなるから もっと傍にいたい

910

8月は命日が多すぎる 風のない午後 アスファルトの道路に蜃気楼 喜ぶとか悲しむとか 愛するとか憎むとか 言葉で説明できない感情を持て余して蔑ろにするのか あの子がいなくなってから何度目の夏なんだろう 揺らぐこともない樹々が空に向かって立ち尽くす …

900

集めてはいけない秘密を墓場までもってゆく季節 入道雲も鳳仙花も蝉時雨もない不夜城で過ごす あなたの指がわたしの内臓を擦る音と 荒くなる呼吸の音だけがやけに大きく響く 磨り減って行くのは冷たくなった心で それ以外なにもない

890

すぐに消えてしまうもの 泡 蜃気楼 煙 虹 そういったものを美しいと思う 常にかたちを変えてゆくものを 追い求めることを辞めて どの瞬間も 愛しく思う 波のかたちも 砂の模様も すべてちがう世界で わたしはあなたのすべてを尊び 安らかであることを祈る

880

いまではもう踊りかたをすっかり忘れてしまった テキーラの焼けるような熱い甘さとか 革張りのソファの柔らかさとか どのようにして過ごしたんだろう いつかの夏 N市のクラブで 屈強な身体付きをした海兵隊の男や 陽に焼けた肌が美しい若い女たちと一緒に明…

870

望まないものを願うだなんて 頓馬なことだけど いつかは本当に欲しかったのかもしれないし 明日になれば心から願うことになるかもしれない たいしたことじゃなくても 大切なことになるかもしれない その願いが叶っても叶わなくても 来週 来月になればよりい…

860

秩序さえ守れば誰も傷つきはしないのだ 背徳も冒涜もなくただひたすら清廉で美しくあることを望む 階段のところで立ち話をしてから別れたあと ひとりきりになってから 顔に両手をあてて泣く真似をすると 途端にとても悲しい気持ちが溢れ出した 若いひとたち …

850

ちいさな石が好きで幼いころはよく拾ったものだった 家の前栽にまかれた那智黒や御影石まで拾ってポケットに入れて叱られたのだ N君という寺の息子としばしば一緒に学校から歩いて帰っていた 本当はK君が一番の仲良しだったのに なぜか彼と遊びながら帰った…

840

いつかまた何処かであなたと会えたらいいのにそれが夏で すこやかな森のなかにある湖のほとりであればもっと素敵だ 鳥が歌い蜻蛉が舞う 青草の生えた岸辺 穏やかな陽射しと冷たい風を 短く眩しいひかりの季節を あなたと過ごせたらいいのに

830

庭に毒草ばかり植えていた女のことを 魔女だと思っていたのだが 林檎を喉に詰めて死んだのだった 鈴蘭と狐の手袋が咲く庭の 畑に実る苺を誰も盗みにやって来ない 魔女ではなかった女の娘が育てた苺は歪なかたちをしている

820

乾いてしまった絵の具 二層に分離した液体 固まって蓋が開かない瓶 脚のもげた蝶 蝶番が壊れた木箱は昔 ケルキパ共和国で暮らす友人のMがくれたもので 明るい色の光が塗られている 開けるのは簡単だけど 閉める時が少し難しい ちょっとだけ左右にずらして ネ…

810

砂利道をゆっくりと歩いた 昼下がり 風がすこし強い そういえば今年は春一番を聞かないうちに季節が変わっていたんだ 木枯らしのことも知らなかった 知らない間に年が明けていたんだった 声を聴きたい そう思うけれど なにも話すことがない 聞きたいこともな…

800

どうして水槽の水はいつも青緑色に透けるのだろう 鋭利な刃物のように尖ったヒレが水面を切り裂き 無数のあぶくを噴き出させる 突風が吹き付けて花を一斉に散らすように あぶくは煌めく 人工海水で満たされた海は 驚くほど精巧につくられていて わたしにはも…

780

とても愛されていることを伝えられたとき それに応じられるだけのことが出来なくて 初めて妥協という言葉の意味を知った そんなことしたって何にもならない わたしには身籠もる資格もない 過ぎてから初めて その季節が儚く 美しかったことに気づいて悔やむの…

770

もう清らかでなくなった関係において わたしはあのひとを愛し続けている そのことが誰にも知られませんように

760

山際の村の夕暮れは早くて 寂しい そのぶん朝が早いというわけでもないのに 通り雨で濡れた甍の波が 波というよりは鱗のように煌めいている ところどころに梅が咲いている 真っ直ぐに枝を伸ばしているのが好きだ 去年の柿は畑の隅で鈴なりのまま褪せてゆく …

750

ウルリーケにも グレートヒェンにもなれなかったわたしの春 通り過ぎていった季節 美しかったはずのひと時 わたしはあなたを愛していた 心から崇め 敬っていた そして畏れていた どれほど近くで話していたとしても 階段教室の教壇と座席のような関係ではなく…

740

明瞭になりかけていた輪郭が 再び朧げになっている 何もかもが遠くにあるようだ 触れているものでさえ 其処にはないように感じる 冬の残り香が漂う夕暮れに 何処へ行けばいいのか 安値いりぼんで結わえた髪を風が撫でてゆく 今はもう寂しさすら感じない なん…

730

沈まないし 澱まないし わたしは透明 冷たかったり熱かったりする 流れるように生きているけれど 流されてはいない 今のところはたぶん 何処かへ行く予定はない 誰かと一緒になるつもりもない だけどいつだって準備は整えて置かなければ そういう気持ちで暮…

720

いつかの春休み わたしは20歳の誕生日を大好きなひとと学生寮の共同台所で ふたりきりで迎えた 夕食後のたわいもない会話 まどろみのなか 日付が変わってすぐに彼女は お祝いの言葉とロザリオをくれた 憧れていた異国の地で 窓から見える景色も 吹きこぼれた…

710

10年前に出逢ったひと そのときに着ていたコートと 同じブーツを履いていて 少しも懐かしいと思わない 何も変わらない 髪型も えくぼも 昔のまま 思い出にならない 永遠の一瞬が続いているから 何も変わらないずっと お慕い申し上げます

700

欲しいものを訊かれたとき うまく答えられなくて口ごもっていたら 骨をあげると言われたので わたしより先に死なないでと答えたけれど 本当は指輪が欲しかった 愛による束縛を可視化したそれを身につけたかったんだ ふだん 指輪なんかしないくせに 神さまに…

690

マシュマロみたいな女の子になりたかった そうして あの人にやさしく撫ぜられて 舐めて 舌の上で溶かして欲しかったんだ指が内臓のなかで動くあの感覚を 今でも覚えていて 鏡の前で絡みあう肉体が現実とは思えないほど憂鬱にみえた 浮遊感は痛みで引き戻され…

680

山へ登りたいというので 峠を目指したが 既に冬季通行止めの案内が出ていた 番人によると山肌に薄く残った白い雪は ゆうべ降ったものだということだった わたしたちは遠くに雪山を眺めながら 冷たい風が吹く橋の上を歩いた 陽が傾いた湖の傍はとても寒い そ…