Wirklichkeit

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欲しいものを訊かれたとき うまく答えられなくて口ごもっていたら 骨をあげると言われたので わたしより先に死なないでと答えたけれど 本当は指輪が欲しかった 愛による束縛を可視化したそれを身につけたかったんだ ふだん 指輪なんかしないくせに 神さまに…

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マシュマロみたいな女の子になりたかった そうして あの人にやさしく撫ぜられて 舐めて 舌の上で溶かして欲しかったんだ指が内臓のなかで動くあの感覚を 今でも覚えていて 鏡の前で絡みあう肉体が現実とは思えないほど憂鬱にみえた 浮遊感は痛みで引き戻され…

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山へ登りたいというので 峠を目指したが 既に冬季通行止めの案内が出ていた 番人によると山肌に薄く残った白い雪は ゆうべ降ったものだということだった わたしたちは遠くに雪山を眺めながら 冷たい風が吹く橋の上を歩いた 陽が傾いた湖の傍はとても寒い そ…

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この冬一番の冷え込みになるでしょうと言われた朝にユメちゃんは死んだ 15歳だった ずっと眠ってばかりで そのまま冷たくなってしまった夢の先に天国 向かいの家のおばさんは泣きながら亡骸を抱きかかえて森のほうへ歩いてゆき 夕方 雪が降ってきたころ 森林…

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光のなかに立つ彼を見つめながら解ったことは わたしは誰も愛してはいなかったことで 彼らもまた同じ気持ちでいたであろうということ 悲しいことではない 傍目にはそれが愛であるとも言えたし そう信じることだって出来たいつかの夜 助手席に座りながら彼は …

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パン屋の広告に仏蘭西から直輸入したクロワッサンだとあるので どうやってぱりぱりの皮が壊れないで届けられるのかと尋ねたら 焼くのは届いてからですと言われたのでなるほどと思った雨の午後食事に対して 大して関心がなかったころ わたしは食べることが面…

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とても良い香りの石鹸と入浴剤を見つけたので 買おうとしたのだけど 月末にポイントセールがあるので待とうと思う その頃まで売り切れませんように 春にはうかうかして 桜の香りのを買い損ねてしまったんだった一体どうして そんなに石鹸だの 香水だの 欲し…

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飛行機の座席の背面にある液晶画面 または客室の前方にある大型スクリーンに時折映し出される現在地情報というのか 地図の上をとぶ飛行機の印を追うのが好きだ とはいえ ユーラシア大陸上空を飛ぶことばかりだったので 太平洋の方へ飛んだのは10年以上前で …

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酔うても 酔うても まだ呑み足りぬ 蠍座の男の子と恋をしたのは どの夏だったのだろう テキーラのように刺激的で 太陽のように燃える情熱で溢れていた 不死身の少年は海も砂漠も越えて あちらこちらに口付けを残して次の街へゆく 陽に灼けた肌が白さを取り戻…

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戻ることを願う日々がないことは幸福であるのか 何処まで行っても平坦な道が続くこの街から見えるいちばん高い山に登ったことはない 学校を出たら 公務員になった幼馴染と結婚して 自転車で通える距離にあるスーパーへパートタイムで働きながら 自分が通った…

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朝の蒼さを愛していた 肌は白磁のように滑らかに 血は紅く燃え 硝子は透明であった 喧騒の名残を乗せたドイツ車が首都高速道路を走り わたしは助手席で海を探した 波の音や 潮の香りを感じたかったので あなたがいなくても わたしがいなくても 夜は明けるか…

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殴られるときは奥歯を噛み締めておかなければいけない 口の中で切れてしまうから しっかりと歯を食いしばっておかなければ しかし同時に 声をあげて快楽に悦ぶことも必要なのだ 堪えるばかりでは飽きられてしまう 肌が裂けて血が流れることを恐れてはいけな…

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構って欲しがりの君は たぶん 何もなかったみたいに歓迎してくれるだろう 或いは待ちくたびれているのかも 既に興味はないけれど 傷つけたくはないので 何もなかったみたいに 知らないふりをするというのは 善人ぶってるだけで 君のことなんてもう なんとも…

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l'été dernier.あなたを愛することが出来てよかった10日間の恋はしあわせだった夜の高瀬川が街灯で煌めくのは あまりにも美しくて泣きたかった 叶わないことも 叶わなかったことも 本当は知っていて それはある意味では絶望だというのに とても愛しくて あな…

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透きとおったままで 深みまでゆけるから 何も恐れずに溺れることが出来る 明るさ ちいさな魚が足元を泳ぎ去る ほとんど奇跡みたいな島で かつて夏を共に過ごした恋人たちはみな泳ぎ方を知らなかった そもそも浴槽以外の水中に浸かったことすらないと言うので…

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不思議な鳥の声で目が覚めた 続いてエンマコオロギの鳴き声 新聞配達人が乗るバイクの音 油蟬 烏の声が羽音と共にだんだんと近づいて また遠ざかる カーテンを開けると 向かいにある教会の白壁が朝日で橙色になっていた顔を洗い 服を着替えて まだ涼しい村の…

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スケジュール帳を持たなくなったのは iPhoneがあるからではなく 記すことが無くなったからだった 今でも憶えていられること以上の予定は立てない 大体 間際に決めるから 特に必要がないのだ 夢にも思わなかったことが 次々と現実になり 不可能は可能になった…

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雨が降る すこしまえ 空気が湿り気を帯びた庭 蜘蛛の巣についた 水滴は 硝子玉の首飾りのようになり 風が吹くたび ゆらゆらときらめく 光もないのに ああ この蒼さ 陽はまだ沈まない 曇り空はちゃんと 灰色をしている けれども 時間のもんだいなのだ 家に帰…

500

こどものころ 永遠のように感じていた時間は 歳を追うことに加速している 500日 約1年半弱 嘘ばかりでも日記を書き続けたということは初めてだったかもしれない 以前の日記帳は全て廃棄してしまったので 調べようがないのだった時が経つ速さに驚く一方で ま…

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後悔は先に立たぬが 思い立ったが吉日という むかしはよく 「先に考えてからやらなきゃ」と言われたが 今やるか 一生やらないか もう悩んでいる暇すら惜しい 隔てる距離を今すぐ 無いことに出来たらいいのに

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若き日の もっとも美しいとされる時期 それは夏だった 夜明け前の空を覆う 青いかがやきの連続 露に濡れた草むらのように きよらかで まだなにも知らなかった 彼女は 新しい母親から 新しい母の味を受け継ぐ いや本当の母のことは ほとんど憶えていないから …

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生花店の薔薇は 棘を抜かれて なす術もなく愛でられる 生まれながらにして 棘など無かったかのように 硝子瓶のなかで佇んでいるだけ南向きの部屋は明るく 大きな窓から見えるのは 旧い街並と その向こうに海 坂道を真っ直ぐ降れば夏がある 水兵の描かれた小…

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真夜中の貨物列車が 汽笛を鳴らしながら通り過ぎてゆく ヴォトカは透明な瓶から 流れてゆく かつて兄弟であった かもしれない まだ見ぬ国の誰か すれ違うのはいつも歩車分離信号のある交差点で 急ぎ足だから気付かない 針葉樹林の無い 穏やかな気候の街で 虎…

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祈りのうたが聴こえた 空のうえで 黒い煙を吐きながら飛ぶ戦闘機は いつの間にか 消えた 夢だったかもしれない 唇も 指先も 身体の奥に残された 痛みだけが 確かだなんて

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革命を諦めた子供たち 徒労に終わったわけではなかったのだが 変化はもたらされず いまや状況は悪化する一方となった街角では街宣車が走り 一例に並んだ信心深い女たちは終末を嘆いている 夜 ふたたび冷えこんだ身体を 火酒と知らない男の手を借りて温める …

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きみの唇は比喩ではなく 事実甘くて それは 口付ける直前に飲んだ 甘い水のせいだったファースト・キスに憧れていた まだ幼かった頃 それが檸檬の味だなんて 誰が言ったのだろう 唾液は舌の上をどこまでも生温く滑り 大抵はアルコールの味がしたことは 悲し…

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きみの存在 もうとうに実在していない きみの生きていた証 遺灰ですら 風に吹かれてしまった きみの せめて感覚だけは ずっと覚えていられるはずだったのに 今ではほとんど 感じられなくなってしまった 春の湿り気を帯びた午後に わたしは記憶を失ってゆく …

410

流れていったはずの音楽の渦に飲まれたまま三月は去る 眼を閉じれば広がるのは 海ではなく森だった 樹々の間を揺れる木漏れ日と 舞台の照明は 時々似ているので いつだったか 鹿毛の馬に乗り 駈歩で森を走った夏のことを思い出した他者としか得られない快楽…

400

春の午後に布団から抜け出せないわたしは いつだったか ちいさな死に浸っていたときに あなたがかけてくれた毛布の柔らかさを思い出し すこしだけ穏やかな気持ちになる あなたはやさしいから ほんとうにわたしが死んでしまっても きっと屍の肌を隠してから去…

390

透明な器に花を飾る 果物を盛る 乳を注ぐ 水滴が落ちる 気化熱なのか それは 蒸発した人間から発生した雲は 千島列島を漂い やがて 涙のようにからい雨を降らせる 橋の上に撒かれた凍結防止剤を 踏みながら歩く 雪はもう 降らない この暖かさならば 硝子瓶の…