1038

客間を片付けていたら古い腕時計を見つけた ちいさな濃紺色の文字盤に金の数字 ベルトは少しよれた細い黒色の革で出来ている 針は動いていない いつから止まっているのか それよりもいつからあったのか はたまた誰のものなのだろうか? 文字盤の裏には家族の…

1037

去年の冬 無色透明の湯舟 浴室は白く清らかでなければならない 爆発するだろうか?桃色の重層は泡を弾けさせながら ゆるやかに溶けた 眠れよ 愛と現の狭間で

1036

思いもよらないところで 思いがけないひとに遭った 停車場でバスを待っていたら 曲がり角から昔の恋人が現れたのだ しかし例によってひとの容貌を覚えられないので不確かではある もしかしたら他人の空似だったかもしれない わたしは驚いて目を丸くしている…

1035

あのひとのことを段々思い出せなくなる 笑ったときの糸みたいな目とか 日焼けした逞しく腕とか 大好きだったのに どんなだったか言葉でしか覚えていない 忘れることと思い出せないことは似ていて でも思い出せないほうが悲しい そうして思い出せたことは と…

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雪が降ったが昼前にはみな溶けてしまった ふかふかの白い綿あめのように降りしきった雪が 優しく身体を包んでくれないことも 街を埋めつくす白さが高潔である一方で悪魔のように残酷であることも ここらの人ならみんな知ってる

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誰かがその女を探しているらしい 構内放送で繰り返される名前 とても珍しい苗字と (もちろん発声されるときに漢字がなんであれ問題ないのだが) 初見では正しく読むことは難しい古風な名は 一度覚えたら忘れられることがない印象的な不思議な響きを持っていた…

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クリスマス 家族への贈り物はちょっと良い肌着か靴下と決めているのだけど それでもなかなか種類が多くて迷ってしまう 別に贈らなくてもいいし 祝う由縁もないのに 街中の飾りは綺麗でわくわくするし ギフト用の包装紙は華やかでつい 何か包んでもらいたくな…

1031

カレンダーをもらった 自分の部屋に飾ってはいないのだけど家の中に毎年 同じ会社のものを飾る定位置がある それは国内の風景写真が全体の6割くらいに印刷され 下には1ヶ月分の日にちが書かれているシンプルなデザインだ どこかの絶景とか 珍しい花や鳥が写…

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また何処かで会うかもしれないし もう一生会わないかもしれなくても 二度と思い出すことがなくても大したことないじゃない どうせ百年後にわたしがいることはないし なんらかの事情で存在が抹消されても 実在していた そのことを知っているのは自分だけで充…

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先祖の供養が如何に大切であるか 老婆は熱心に話し 若者は曖昧な笑顔で生返事をしていた 成功したいなら 富を築きたいなら 祈りなさい 感謝しなさいと彼女は嬉しそうに 地獄の苦しみを味わいたくないでしょう あなた ××みたいに×人も殺したら千年地獄で過ご…

1028

今夜はとても冷えている 雨が降り出せば雪に変わるだろうが 空には満天の星が光り輝いているので その心配はいらない 街へ働きに行った者の何人かは 既に村へ帰ってきていたが 春からまた更にこちらへ戻ってくるという 更にその内何人かは家族を増やしている…

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車窓から見える景色は夜 光のない世界が広がっている なんだってそんなに暗いのだろう 月も雲に隠れて 柔らかな背もたれの椅子がある車内だけは煌々と明るく 眠ることもままならないのに

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囲炉裏を囲んで酒と料理を楽しんだ 昔ながらの生活を体験することで 古き良き時代に郷愁を感じるというのか あるいはもっと人間の原始的な本能に近づきたい -燃える火を囲んで食事をする- ということを元来求めているのかもしれない

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ホフヌンクの駅へ切符を買いに行った 最果ての村 もう誰も暮らしてはいない奥地にある駅を目指すために 知らない土地がとてもたくさんあり 恐らく一生に一度も訪れることがないどころか 知ることすら無い場所があることは当然だけど そのことを自覚しながら…

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「愛しすぎたなんてことはないけれど そんな気持ちになることはもう二度とないと思うの」そう言って彼女は笑った 少しも面白くなかったけれど 僕も曖昧に微笑みかえした 彼女は彼のことをほとんど知らない 彼の生まれや育ち 学歴 交友関係 むかしの恋人たち…

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杏の木を伐った 鋸で手首くらいの太さがある枝を落としながら樅木を買いに行ったときのことを思い出していた 生協の店で注文してあったのを車で取りに行き 帰りに中華料理店で名前を知らない赤っぽい煮込み料理のようなものを買って帰った 酢豚ではなかった…

1022

初めて異様な視線に気づいたのは二十歳になるかそこらの頃だった 舐めるようではなく 突き刺すように ほとんど悪意を感じる強い視線だ 実際に彼がわたしを憎んでいたかは知らない たったいま会ったばかりの見ず知らずの他人同士で もし恨まれるようなことを…

1021

引き裂かれた白い腹から溢れ出す魚卵 また魚卵 艶々と滑りながらまな板のうえにひろがってゆく 魚はもう動いてはいない 乾いた唇から血が滲むのは十二月 あのひとの前歯は少しだけ出ているから 笑うと唇が切れて白い歯に血がつくのを わたしは教えなかった …

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破綻するはずの関係性を無理矢理維持し続けたら いつか強い絆が生まれるのか 皺寄せが来るのかわからない わたしは呪う あらゆる形式を重視した無感動な愛を 義務的に強制された望まれない愛を 尊び 妄信的に崇拝することのほうが清らかである矛盾 あるいは…

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よく開けた山道を走っていた なんとかスカイラインという名前がありそうな景色の良いところで 樹々は紅葉し 赤や黄色の葉のグラデーションを 常緑樹の濃い緑がその鮮やかさを引き立てていた 白い霞がところどころに漂うとまるで空の上にいるかのよう ここい…

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どこまで行っても喧騒 自分自身がそうだったことに気づかないまま失踪 心中未遂をしたどの夜にも死ではない別れがあったことを覚えている必要はない

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届かなかった手紙と 忘れた集合場所で 会わなかったのは それが正しかったから でも誰が決めたんだろう? いつまでも純粋で穢れがないと信じたいだけなら電波が入らない山小屋から出ない方がいい 誰かが特別とか自分とは違うとか 半分正解で半分理想みたいな…

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斜交いの家の女が死んだ ゆうべ家のものにおやすみと言って眠りについてから そのまま布団のなかで息絶えていたという 駆けつけた警察官とお医者さまはその安らかな しかし血の気ない表情に驚いたそうだが 彼女のほんとうの名前や年齢を知るものが誰もいない…

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過ぎていった時代に追い縋るのも 思うようにならなかった世代を憎むのも 自由ではあるけれど ただそれだけのこと 青春を引きづり続けたまま生きても 他人を巻き込んで不幸にするのは傲慢だろう ましてや支配出来る弱いものだけを求めるなんて そんな 自分自…

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背の高いダンディなシニア という言葉を体現したような人だった 半年ほど一緒に働き 退職のときには色紙も書いたのに 名前はもはや思い出せない 妻とは早くに死に別れたと話していた しかし浮いた話を聞いたことがない 黒い革靴はいつでも必ずぴかぴかに磨か…

1013

私が着るなんて信じられないような色のコートを試着して まるで似合わないのに 店員は手放しに褒めた 今日は勤労感謝の日

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悩むより聞くことが出来るならすみやかに訊ねること 面倒でも手間を惜しまず確認すること 何も言わなかったことで後悔してもぐちぐち言わないこと スムーズな取引はきもちいい あとは何色のマトリョーシカを買うかが問題 予算の範囲内で

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久しぶりに訪れた店がまるで違う店になっていた 階数を間違えたのかと思って もう一度上がったり 降ったりしたけど 正しかった もうその店は無かった 確かにここ数年新しいものが入荷されず品揃えは悪くなる一方で足が遠ざかっていたのだけど いつでも気軽に…

1010

むかし 友達とふたりで白い壁沿いの道を歩いていたとき ふいに門扉が現れ (ふいに というのは本当はおかしい その壁も入口も少なくとも100年以上前からあるのだから) なかには銀杏並木と一面金色に光り輝く落ち葉で埋め尽くされた砂利道がひろがっていた 底…

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「僕は親が不仲だったんだ」夏に出会った男はそう言った わたしは河へ向かって石を投げた 丸くて平べったい石は水の上を2回跳ねてから沈んだ 「だから早く家を出て新しい家庭をつくりたかった」 夕焼けが家屋の間を沈んでゆく 少し風も出てきたようだ あた…