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部屋に入ると人の気配がしたので「菅谷くん、いるの?」と彼女は言った. 何故、そこに居るはずもない男の名を呼んだのだろうか.  居 て 欲 し い と願ったからだ. 
「おいでよ、自分の眼で確かめたら良い」その声は確かに彼の声だった「此処にいるよ」彼女は麻で織られた布の暖簾をくぐり、マホガニー色の床を軋ませながら部屋に入った. カウチの上で仰向けになり手を組んでいたのは、菅谷くんだった. ずっと前に失踪した彼女の恋人だった. けれど彼女は取り乱すことなくカウチの傍に歩み寄ると、かつてのように彼の頭に手を当てて、縮れた長い髪を撫でた. 彼の姿には色彩があり、陰影があり、汗の匂いだってした. しかし何かを話せば、彼はまた消滅しそうな気がした.

彼女が菅谷をはっきりと認識したのはそれが初めての夢だった.