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クレゾールの匂いが嫌いだ

階段を登って3階 詰所を右手に曲がり 生暖かい空気の底みたいな リノリウム張りの廊下をまっすぐ進み 突き当りの部屋に彼はいた 鼻からチューブを挿し込み ほとんど何も食べられず ただ生かされていた 会話することも侭ならなかったのは 鎮痛のために常用していた モルヒネの副作用だったのだろう 真冬の清潔な病室で 虫がいると 手を振るので 彼の妻はその手を握ろうとしたが 暴れるので 悲しそうに少し離れたところで 林檎の皮を剥き 私に食べさせてくれた
 
行くべき場所は決められていたし 帰る場所は家だけだった 凍える岸辺から彼は小舟に乗り 病室へ戻ることはなかった
 
クレゾールの匂いから解放され 心音が停止した人間が白い光のなかへ 運び出されてゆく
いや それは 雪のせいだった