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心を取り戻すには 傷ついた期間の倍はかかるだろうと 漠然と感じていた 彼と初めて会った日のことを今も覚えていて わたしは水の入ったグラスを持つ手が震えていたし 何を話したかわからなかった それまで男の人とふたりきりで出掛けたことなんか一度だってなかったから でも きっといつか この人のために 飛び降りて死にたくなる それほど好きになるだろう そう思ったんだった


そうしてわたしは彼と身体を重ねた 墨染の衣が揺れる窓に 西日が差し込んでいる 初めてのひとだった 最後のひとであってほしかった けれども あの灼けるような 身体の奥深くから 引き裂かれ ぐちゃぐちゃにすり潰されてゆくような 激しい痛みのさなか 愛などまるで無かった 仮初めのやさしさすらも その後に出逢った 一晩限りの男たちがみせる 馬鹿げたロマンスも うたかたの甘言すらも無かった 痛みに泣くわたしに 彼は 巧くやったから血が出なかった とだけ言った
それがどうしたというの


それから10年近く経った春に 彼は故郷へ戻り何処かの令嬢と祝言をあげた わたしはそれをSNSで知る 相手の女性は 何も知らん顔で幸せそうにしていて これからも知らないままでいて欲しいと思う ずっと