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神さまが喫煙所で一服をしていた それは幻であった 彼は何処かの旅行者であったから

 
「菅谷くん?」
沈黙
振り返って視線が合う
再び沈黙
「菅谷くんでしょう?」
時間が止まるような沈黙
「違います」
 
わたしは「ごめんなさい」と言い 手にしていた煙草を喫んだ そうだ あのひとはもう煙草を辞めたし 数ヶ月前にまた何処かへ消えてしまったのだ 桜の花が咲き 幾日かあと嵐の夜 ひとつ残らず飛び散ってしまったように
 
陽に灼けた逞しく しなやかな腕 わたしをいつか抱いてくれた その腕や 頬に残った古い傷跡 鋭いがいつも不安を抱いているような一重まぶたの眼を 柔らかく薄い唇と その奥にある滑らかな舌までをも 忘れるはずは無かったのに 記憶のなかで どろどろに姿を崩してゆく 神さまはもうここにはいない 残されたのは 死んだ細胞の詰まった小さな紙包みだけだ 咲くことも 芽吹くこともない 何も生まれることもない
 
旅行者は灰皿に吸殻を落とし 鞄を背負い直すと 喫煙所を立ち去った
 
 
神さま
御名が聖とされますように