746

卒業式の日が雨だったか 晴れていたかなんて覚えていないし みんなどうでも良かった

よくある話だけど学校が嫌いだった 興味もない歴史を覚えたり (ギリシア神話はロマンティックだと思う) よくわからない計算をしたり (解なしってどういうこと) 仲良しグループで休み時間ごとにトイレへ行ったり (行かないと洗面所で何を噂されるかわからない)  可哀想なくらいのろまな子だったので 何をするにも要領を得なくてそのくせ強情をはるのでどうしようもなかった

それでも週末 教会で聖書を講読する時間は好きだった 毎回終わったら感想を書かなくてはいけなくて みんな嫌がったり 居眠りしては立たされたりしていたけど わたしはその時間が好きだった まだ新しいステンドグラスはそれなりに綺麗だったし 感想文は幾多も書かされた小論文やレポートのうち唯一採点されなかったからだ 或いは教師の理想通りの文を書いていたのかもしれないけれど

 

もしも高校時代の自分になにかを伝えることが出来たとしても どうせ聞きやしないんだから無意味だけど ただ 寝る前にチョコレートを食べたら ちゃんと歯磨きをしないと虫歯になるぞとは言ってやりたい

745

悪魔が契約を見直そうという これまでの業績を鑑みるに 僕の腕前は魔界での評価がすこぶる高いらしい 名誉ある地位 庭付き一戸建て 自家用車 あたらしい家族との生活 「彼女 早くドレス着たいんじゃないの」と悪魔が囁く 「悪い話じゃないと思うよ このご時世にさ」 金に眼が眩んだ僕は 言われるがままに親指に針を刺して拇印を押した 朱肉より赤い色が契約書にうつり ちいさなちいさな字で書かれたまどろっこしい文章が一斉に踊りだしたと同時に 悪魔は高笑いして煙になり 契約書を巻き込むと消えて あとにはその写しだけが机の上に残されていた 律儀なやつだ

 

虫眼鏡を使って契約書を読むと 無頼漢になって自由を得る権利には抹線が引かれていた 代わりに様々な義務が押し付けられていたが いずれにせよ大したことではなかった どのみち自由なんてものはないのだ! 今やあらゆる規則と制限のなかで どれだけ楽しめるかが重要なのだ

744

買わない理由がないのに我慢したいから 大好きなA君が好きじゃないって言ったらとか 憧れのB先輩が流行遅れだって笑ったらとか いろいろ考えてはみたけれどそれでも欲しいし もし苦手なC先生が似合うと褒めてくれたなら 彼は最高にセンスが良いひとだって思うだろう

 

ところで何年か前 D女史からE地方の民族衣装が似合いそうと言われたことがある (本当に!)  そしてわたしの証明写真はというと 母国の民族衣装姿なのだ 滅多に見せることも見ることもないけれど 特別な衣装というものはなんとなく楽しい気分になる

743

あなたの朝陽とわたしの夕陽を共有している昼過ぎ ひかりは濁りながら沈んでゆく 知らない歌ばかり聴こえる部屋で 花瓶から溢れ出したちいさな花は秘密の色をしていて可憐だ わたしは窓から渡り鳥が飛び込んでくるのを待ちわびている 寒さで指先が冷えるのも厭わないで

742

街はもう春風が吹くたびにショーウィンドウのレースが揺れている 新しい下着が欲しい レースで出来たワイヤー無しの ああ それは何の役にも立たない! ただの飾り 誰に見せることが無くたっていい 水色のレースで作られた下着が欲しい わたしが楽しむためだけに

741

女給時代に支配人が言った「アイキューハチヨン」という言葉が忘れられない 今度は 騎士団長が殺されるというし わたしは車屋でだって働いた 鈍間 白痴と罵られ 神経がすり減ってゆく 「お客さんにねぇ 話ふられたら返さなきゃ駄目だよ ちゃんと新聞読んでさぁ」「はぁ」「例えばさぁベストセラー 出たじゃん?アイキューハチヨン」 と支配人は言った 逆立つような神経はもう無かったし わたしは店を辞めた

 

空になったロッカーを開けた同僚にだけ わたしはごめんねと言った もう7年も前のことだ

740

明瞭になりかけていた輪郭が 再び朧げになっている 何もかもが遠くにあるようだ 触れているものでさえ 其処にはないように感じる

冬の残り香が漂う夕暮れに 何処へ行けばいいのか 安値いりぼんで結わえた髪を風が撫でてゆく 今はもう寂しさすら感じない なんて遠いところへ来てしまったのだろう 此処には海が無い どうして どうして 水平線が見たかったのに 何もかもが朧げに見えるのだろう

 

f:id:mrcr:20170223162501j:image

739

日々どれだけのことを憶えて 忘れてしまうのだろう 大して困ってもいないけれど 例えば記念日はほとんど忘れることがない でも西暦が覚えられない 歴史の試験ではそちらの数字が重要なのに そして道順 一度歩いたところなら迷わずにたどり着ける でも人の顔がわからなくて あまり会ったことがない人と待ち合わせをすると 見つけられるかどうかいつもどきどきする そういうわけで わたしの夢にはしばしば顔がないひとや透明人間が現れる でもそれが誰であるかわかっているのだから 実によく出来ている夢だと思う

738

詩だとか氏じゃないとかもう死んだとかどうだって良いなら 何も言うべきではないかもしれない そもそも見ても聴いてもいないのだ たぶん誰だって言葉を選んで大切に扱っているであろうことを前提に思いたい でも大切にするってどういうことなんだろう

 

わたしは生きるために書くし 好きなことを書き続けられるように働く 昔 当時の恋人に売れるために書くべきことはなにか教えられたけれど 書きたくもないことを書くよりは好きなことを書いていたい

737

北の果てに暮らしているので春が来るのが遅い

 

本当はもう 黒いメルトンのロングコートなんか着たくない ブーツじゃなくてパンプスで歩きたい 水玉模様のワンピースにイタリア製のコットンカーディガンを合わせて街へ出たいのに外が寒い 花瓶に生けたアネモネはちっとも萎れない 部屋のなかは去年からずっと冷蔵庫と同じ温度で変わらない

 

月曜の朝 防寒して汽車に乗り 山と河川をいくつも越えて出稼ぎにゆく トンネルを抜けるたびに景色がどんどん変わる 停車場にいる人びとの顔も何処となく明るい気がする わたしから春に会いに行って それからまた週末 雪国へ帰る あとひと月くらいだけど