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煤けた桃色の髪飾りを買った 花のかたちをしたクリップでとても愛らしい フランス製の髪飾りはどれも普遍的な可愛いさがあり 他にも鼈甲色をしたリボンのかたちのバレッタとか 三日月みたいな細いピンとか 10年くらい使っても少しも痛んでいないし 流行遅れになるということもない

でも20年以上前に まだ髪が長かった母が買ったドイツ製のヘアクリップは 今ではわたしの髪をまとめているからもっとすごい バネがちっとも緩まないのだ 綺麗なスワロフスキーのラインストーンも ビーズも付いていないけれどそれですこしも不便はない 近所の雑貨屋で千円もしなかったと思う そういえばまだ通貨がユーロではない時代のことだった

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誰に聞いても好青年と云われるひとがいて わたしは彼に会ったことがないから 形而上の存在となった好青年である彼に憧れ続けている 本当に誰からも悪い評判を聞かなくて 彼を知るひとはただ「好青年だよ」という (時々文頭に 眼鏡の という外見的情報もつく)  でも そんなひとって実在するんだろうか わたしはまだ 会ったことがないけれど

 

誰に聞いても 無頼漢と云われるひとがいて わたしは彼が好きだから

「彼のことが好きだから心配なの」という女に 男の店員は「わかるよ 君は彼が好きだものね」と相槌を打っていた わたしはキングサイズのミントチョコレート・アイスクリームをワッフルコーンで バディはレギュラーサイズのストロベリー・アイスクリームをカップ入りで注文した ひとくち交換しようと言ったら ミント味のチョコレートは嫌いだからいらないと断られたけど ひとくち味見させてくれた まだ少し寒かったので 食べ終わるころには唇が青くなったけど とても美味しかった 

767

近頃とても疲れている 春が来たらニルゲンドヴォ村へ帰ろう 緑きらめくわたしの故郷 もうそれほど多くのひとは暮らしてはいない 見離された最果ての土地 名前を奪われ 地図の上から消え去った場所 花咲き乱れたる最期の楽園 誰もそこから生まれないから 愛も憎しみも何もない 本当にもう 何もない

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春の不眠は悲惨だ わたしは薄暗い部屋のなかにいて あのひとの面影を探してばかりいる 夢から覚めれば何時ともわからない闇のなか それの繰り返し 本当に嫌になる 寂しさで眠れないなんて嘘 あのひとにはもう夢でしか会えないのに

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よく晴れていたので 部屋の隅に布団を敷き 鎧戸を締めて寝ていた 寝ているときも含めて12時間なにも食べないのをプチ断食と呼ぶらしい 昨夜はすっかり吐いたあとで12時間以上寝たし 普段から週末はよく寝ているのだった 効果があるのかどうかは知らない ただ 本当に胃になにも入っていないと実感出来るときもあって そういうときは白湯が美味しい

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初めて爪を真っ赤に塗った日 ママは「まだ早すぎる」と言い それから何年かして塗ったら「もっと若いひとの塗る色だ」と言った この非の打ち所がない矛盾 或いは真っ赤な爪が最高に適したほんのわずかな一瞬を見逃した事実に対して わたしは「似合ってるんだから問題はない」と答えた 実際のところ悪くなかった ただ剥がれると目立つのであまり塗らないようになったけど ある意味間違ってはなかった

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「性交をしていると段々自分の身体がサカナになってゆくような気がする 光が届かない深い奥底は 暗く冷たく でもそれがとても気持ち良くて もっともっと泳いでいたくなる 息継ぎは接吻 わたしはサカナになるから 息継ぎをしなくても呼吸が出来るはずなのだけど まだ今は駄目 鱗もはえていないし ひとり満足に泳ぐことも出来ない そうあなた無しでは」

 

聞こえますか わたしの潮が満ちて そのなかであなたが熱くなった櫂を漕いでいる音が 聞こえますか まだ人間の形を憶えているわたしの口から吐き出される言葉が 聞こえますか ふたりのまわりに押し寄せてくる漣の音が 聞こえますか

聞こえますか

 

 

 

生殖を目的としない性交の罪深さを母親は淡々と話し わたしは何度か鞭で打たれたあと鍵のついた納屋のなかへ押し込められた 眼を閉じればサカナになったあのひとが砂浜に放った精液の白さだけが正しく残され あとはすべて波にのまれ打ち流されてゆく 腐敗した肉体はやがて骨になり いつかは砕かれて砂になるだろう その日はしかし あまりにも遠く 愛は永遠の彼方で息も出来ない

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かつて好きだったひとからのメールに添付された一枚の画像は 彼女の名前が記されたエコー写真で 既に明確な線で現れている胎児の姿は自然の神秘そのものだった なんと素晴らしいことだろう 彼女が母親になるということは!

「まだ男か女かわからないの」と彼女は続けた わたしは「どちらでも可愛いよ」と答えた

健やかな可愛い子供が産まれますように

 

"Je t'adore, un amour de M !"