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どうして水槽の水はいつも青緑色に透けるのだろう 鋭利な刃物のように尖ったヒレが水面を切り裂き 無数のあぶくを噴き出させる  突風が吹き付けて花を一斉に散らすように あぶくは煌めく


人工海水で満たされた海は 驚くほど精巧につくられていて わたしにはもう本物の潮騒を思い出すことは出来ないだろう LEDライトの照明が明けることのない夜を照らし 眠ることも目覚めることもなく 水槽のなかで産まれたこどもたちは 黎明の空を知らぬまま還ってゆく (しかしそのことに理由や意味を見出すのは水槽の外の話である)



しばしば足のつかない深いところを泳ぐ夢を見る けれどもわたしは顔をあげたまま 速さは出せないけれど あまり疲れずに泳ぐ方法を知っているから 少しも嫌ではなくて むしろ延々と腕を動かし どこまでも続く海原を越えてゆきたいと思っている

だがその海は本当は模造品なのだ わたしの夢のなかで海はもう干上がってしまったから 涙で出来た水溜りしかない そのことを思い出すと 無いはずの対岸にたどりつくので 身体にまとわりつくオリーブグリーンのドレスを水中に揺蕩わせながら 腕を伸ばして照明の電源をつけた 白熱灯のひかりが世界を照らし わたしは岸辺にあがる 鱗だらけの身体で草叢のうえで眠る

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名前を忘れた植物の 効能だけを覚えていたり 台詞を忘れたまま動いたりして 満点が取れない  花壇が開いていたので 花でも買ってこようと家人に相談したら おまえ そこには球根を植えたと言ったじゃないかと笑われ 確かになにか埋めたし 咲いたのだった 思っていたより派手な色のチューリップだった

797

知らない街の ややこしい綴りの名前がついた石畳の通りを 颯爽と歩いている彼とは まだ会ったことがない たぶん左の肩甲骨のあたりに青い鳥の絵が飛んでいて 煙草はゴロワーズの赤い箱 ラムよりもコニャックが好きだけど 牛乳も好きだからとても背が高くなった 毎朝8時に起きてシェパードの散歩をしてから仕事へ行くのが日課で 週末の夜には友達と一緒にビリヤードへ行ったり バスケットをしたりする もしかしたら菜食主義者かも なんだかそんな気がする でもきっとエスカルゴは好きだと思うな そんな気がするのよ まだ見たことも 話したこともないんだけどね

796

焼いた肉を食べさせてくれるというので食べに行った ナイフで細かい切れ目を入れて柔らかくした 何かよくわからない赤い肉は 味がついていて 網の上でよく燃えた 焼けるというよりは燃えたのだった



むかし 奮発して精肉店で一番高級な牛肉を買おうと意気込んで行ったら 100g買うのに半日働く必要があったので辞めた 店の親父はその日ショウケースに並んだうち一番安かった豚の細切れを それでも丁寧に包んでくれたことを思い出した

795

わたしの知らない世界 マティーニグラスのなかで水浴びをして スワロフスキーのシャンデリアの下で身につけるのは化繊じゃない本物のシルクだけ パーティは人目につかない地下ではなく 夜景が見える高層ビルの最上階で行われていて 何人もの女たちが薄くて軽い生地のドレープを揺らしながら真っ赤なルージュで微笑んでいる 張りぼてだらけの調度品で飾られたブティックに飾られた 誰でも細く見える鏡が 水銀みたいに歪んだ一瞬に飛び込めば辿り着ける世界 時計の針は23:59:00と23:59:59の間を行ったり来たりし続けて魔法が解けることはない なんて孤独なんだろう

794

久々に葡萄酒を買った 飲むのは蒸留酒ばかりなので 料理に使うため 魚介の酒蒸しが好きなのだ 日本酒のそれも好きだけど 柔らかい白身の肉なら 白葡萄酒が良いと思う 別々に食べてももちろん美味しいけれど

 

そういえば エスカルゴの缶詰を見なくなってしまい 少し残念な気分 あまり売れなかったのかもしれない ボルシチ用ビーツの水煮も買っておけば良かったと思う

793

毒という字と妻は似ているけれど ゴケグモの名前は咬まれるとその毒で死に至り 後家を迎えることになるというのが俗説にある でも実際は英名の Widow spider をただ和訳しただけ 交尾後に雄を食べて未亡人の蜘蛛になっちゃうからだって 悲しい

何年か前 男やもめと付き合っていたことがある 奥さんはなにかの紛争に巻き込まれて死んでしまったと言っていたけれどほんとうだったのかな 彼はとんでもない Panty melter だったから 誰にも殺せなかったんだと思う 何度か咬みついたけど てんでだめだった

792

裏庭に杏の花が咲いていた 白い雪のようだが 若葉も一緒に芽吹いているので爽やかな色合いをしている 実ったことはまだない 一本しかないから 受粉のしようがないのだった

さて 蜂蜜が冬に結晶化したまま 一向に溶ける様子を見せない 白くて固いバターのようになっていて スプーンですこしずつ削ると ほろほろと崩れる 欠けらを摘むと指先の温度でもぬるりと溶けて 舐めるとたしかに蜂蜜の味がするのだけど どうにも不思議な感じ たぶんその色が石鹸に似ているからだと思う

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理由があってスープに入った肉を食べられないというので 代わりに食べて 僕のデザートに添えられたメロンをあげた これも理由があって食べられないのだけど 彼女は嬉しそうに 一番にメロンを食べて 間に苺 キウイ 生クリームのついたプリンを食べて 最後にもう一度メロンを食べた とても美味しいご飯だった