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望まないものを願うだなんて 頓馬なことだけど いつかは本当に欲しかったのかもしれないし 明日になれば心から願うことになるかもしれない たいしたことじゃなくても

 

大切なことになるかもしれない その願いが叶っても叶わなくても 来週 来月になればよりいっそう また会おうという言葉をどれだけ信じても 同じ日のふたりはいない 

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郵便受けに押し込まれた新聞とダイレクト・メールの隙間に不在票 留守番電話のメッセージに残されていたのはお告げだっただろうか

 

再生 再び生きること

沈黙した機器がテープを巻き戻し産声をあげる 知らない若い男の声で

死んでいたのはわたしだったのでしょうか?

救世主が殺された街では 天使が追悼ライブを行っている 飛べない翼はアメリカ製のちょっと高いやつ 届くのに結構日にちがかかったとか すぐ来たとかなんとか

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通りはもうお囃子が流れて 提灯もところどころに飾られている あの音を聴くと胸が苦しくなるのは 心が邪なせいか 過ぎ去った夏のことを思い出すからなのか

 

離ればなれになることを選んだのはわたしだったけど (いずれにせよ別れるときはくるのだとしても) 寂しいものは寂しい

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湿り気を帯びた夜が音を立てながら流れてゆく 後悔なんてなにもしていない 正しく 別れを告げるということを成し遂げたから それで充分だった

さよならを教えてとは言うけれど いい加減に学ばなくてはいけない 誰も正解を教えてくれないのは 知らないからなのか はなから間違いなど無いからなのか 蒔いた種は刈り取らねばならない だけど刈り取る方法まで知らされてはいないから 鎌はいつでも磨いておくべきだと思う

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緩やかに死んでいった午後の湿り気が 花瓶のなかで腐ってゆく 熱くなった粘液で滑りながら 肉は音を立てながら破れて 傷ついたまま何でもなかった振りをすることを咎めないでほしい

 

要求はどんどん増えて いまでは本当に望んでいたかどうかすらわからない 日灼けした褐色の肌で覆われたしなやかな筋肉を確かに愛してはいたのだけど あなたの顔がやっぱり思い出せない 彫刻のように美しい横顔も 憂いを含んだ眼差しのことも

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痺れているとき わたしは流れることが出来ない 澱むこともなく渦をつくりだす 湖の岸辺からほんの少し離れただけで とても深くなっているところは 冬の雪解け水がいつまでも眠り続けているから 禁じられた線を越えた子供たちを容赦なく引き摺り込んでしまう だから誰もわたしを起こさないで 激しい渦のなかで誰も殺したくはないから わたし自身も含めて

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長すぎるワンピースを買った ぎりぎり踝が見えるくらい長い黒のジャージー素材 どうしたって長すぎるけどいいんだ 夏が来ることが 季節がきちんと巡ることが嬉しい 雨は少なすぎたけど

 

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近くで見たあのひとの眼が 細い二重瞼だったのを初めて知った もう会えなくても また何処かで会っても どちらでもいいね 友達じゃないし 兄妹でもないけど 少しだけ特別だった なにが ということもないけれど 少しだけわたしの神様と似ていて でも全然ちがって 大きな掌は温かだった 知らない国で もう一生会うこともないひとと交わすような握手 それは儀礼よりも親密で 印象深い行為 または恋に似ている

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彼女が死んだのは新月の朝だった それは きっと 彼女が何処かであたらしく生まれたということ やり直すことが出来たということ 死は結果ではないというふうに考えるほかにどうしようもなかった 事実死は結果ではないのだ 彼女の生きた30余年の日々のうえにただ一度だけ訪れた出来事として存在してはいるけれど 彼女が遺していった思考や 愛や 言葉や それにより影響を受けたひとびとがいる限り 死が彼女のすべてを打ち切ってしまうわけではないのだから

或いはそのように 死がすべてを終わらせてしまうことが出来たなら 関与するあらゆること一切が消滅してしまうのならば それはそれでよかったのかもしれない 誰かの死を嘆き悲しみ弔うという行為が無い世界で 生だけを尊ぶとしたなら 本能だけで殖えてゆけるだろうか 文明も思想も発展することはないだろう

 

夢のなかで彼女は「泣かないで」と言った そうすることは簡単ではなかった

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ニルゲンドヴォへゆく 雨はまだ降らない

 

覆い茂る草木を男は鎌でばさばさと刈り取り わたしはそのあとを 地面になぎ倒された枯草とまだ青い草のうえを 踏み締めるように歩き 河辺へ向かった 乾いた枯葉は去年の夏の蒼さだった せせらぎを流れる雪どけは色彩を失った季節の涙であっただろうか 対岸には赤い花が咲いている 風が吹くたびに揺れて その薄い花弁が噴き出す血のように飛ぶので わたしは鎌で腕を切りその赤さが等しい色であることを確かめた