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早朝 エンジンの音で目が覚めたので カーテンを開けるとインターホンが鳴った 新聞配達人なら無言で立ち去るのだけれどと 窓を開けて階下を覗くと 青いコンバーチブルに乗った夏が来ていたので 手を振ってすぐに行くから と 慌てて階段を駆け下りて扉を開けた 夏は真っ白な砂のうえに置いた 櫛形に切ったオレンジのような唇で笑いながら立っていた ねぇ久しぶり やっと来たよ 早朝 わたしたちは小声で話す どうしてたの どうって スードの方へ行ってたのよ あちらが今度は寒くなるの 夏は左の手首につけた時計を一瞥すると もう行かなくちゃと言った ゆっくりしてけばいいのに と応えた そのように会話をするようになっているから 夏は 当分ここらにいるからまたね とウィンクをしてコンバーチブルに乗り込み そのまま海岸のほうへと走り去って行った 見送ってから玄関に戻ると 蝉が脱皮をしていた まだ緑色に透き通っていた
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いまではもう踊りかたをすっかり忘れてしまった テキーラの焼けるような熱い甘さとか 革張りのソファの柔らかさとか どのようにして過ごしたんだろう いつかの夏 N市のクラブで 屈強な身体付きをした海兵隊の男や 陽に焼けた肌が美しい若い女たちと一緒に明け方まで踊り続けて なにが というわけでもないけれど とにかく楽しかった 心が感傷で痛む速度を通り越して ミラーボールは煌めきながら回る 真夜中の太陽のように
長い黒髪に白い花を飾った娘とは ごく自然に惹かれあい 口付けを交わした ダンスフロアで身体を寄せ合い とても原始的な方法で欲望のままに求めあったことを いつまでも憶えていたい 美しいものを純粋に愛でること 第三者の常識に囚われぬこと ひと夜限りの夢は短い