1361
今際の際から戻ってきたひとが 河のような景色を見たという話はよく耳にするけれど 戻らなかったひとはいかに?
ヒンメルの山あいにあるちいさな集落は とても寒いので一年のうち半分は雪に包まれている 短い夏はしかし 陽が沈むことがないので人々は毎晩のように踊り明かし 鮮やかな緑が広がる野原で さざ波が鱒の鱗のように煌めく湖畔で愛を語らう わたしの父母や 祖父母 また曽祖父たちもそのような景色のなかで青春を過ごし やがて死んでいった その日は大抵「この冬一番の寒さ」と言われる日で 墓守の男は死者が墓地からよみがえってこないように見張りをつとめ 弱っている者がいる家ではここが生者だけの世界であることを証明するために 火を焚き 音楽を奏で 夏のように踊って過ごすのだが 朝になれば墓守は死者を連れて昔話に花を咲かせながら帰ってきてしまうのだ そういうとき ベッドで伏していたはずの年寄りは活き活きとしながら起きて外へゆき そのまま雪のなかへ倒れこんでしまう そういうさだめなのだろう
1360
あまり話したことがなかったひとが死んで はじめてそのひとのプライベートなことを知り でも きっともう思い出すこともないのだろう 「3日もすればみんな忘れちまうんだ まるで最初からいなかったみたいに 寂しいもんだな」と男は言った みんな口にしないだけで 彼のように寂しがっているのかもしれないし そうであってほしいとも思う
1358
宝石店へ行く 若い男女や それほど若くはない男女が大勢ショーケースの前で仲睦まじく並んでいたので あまり邪魔にならないよう端から見ていたら 愛想の良い店員が声をかけてくれたので ネックレスを出して見せてもらった 金具はプラチナかゴールド 石は無色透明のダイヤモンドのみでつくられた貴金属が陳列された白いショーケースはまばゆいばかり 何年か前にあの有名な映画のタイトルにもなった宝石店を訪れたときは 店内の照明が薄暗くてよく見えなかったので あまり覚えていないけど 明るい場所で見る方が断然いいと思った 大抵は蛍光灯の下にいるので
普段 アクセサリをつけることが滅多とないのは なんとなく顔周りがごちゃごちゃして見えるように思うからだ 派手な顔ではないが 口紅を塗ればもうかなり出来上がったような気がするし そこへ更にピアスやネックレスやらをつけるとうるさくて仕方ない バランスを取るのが難しいのだ すてきなネックレスが似合っているひとが羨ましいと思う そういったアクセサリと出会うこともまた 足に合う靴を見つけるのと同じくらい難しい
1357
日が沈むにつれ 部屋のなかの空気がしんと冷え込んでいくのがわかる 西陽が途絶えた庭を見ると槙の木の垣根が切り絵のような影を落としていた 子どもたちの叫び声と笑い声 砂利道を駆けてゆくときの石と靴が擦れ合う足音が聞こえる わたしは諦めて眼を閉じると初めて座敷に広がる線香の匂いに気がついた
念仏は果てしなく続く 女たちも僧侶のあとを追いながら読んでいる 今はまだ畳の上に残されたちいさな輪で出来た数珠の輪郭がくっきりと見えているが じきに暗闇のなかへ朧げに消えてゆくだろう橙色の珠が連なった数珠には紫の房飾りがついている それはわたしが子どもの頃に使っていたものだ 何処へやったのだろうと思っていたら ちゃんと片付けられていたらしい あの頃はお念仏を唱えるだけで褒められていた 意味はひとつもわからなかったから 日曜学校へ行きたいと思っていたけれど その扉はついに開かれることはなかった
だんだんと冷えてゆく部屋のなかで わたしは灼熱の砂漠を 断食月がはじまる少し前に訪れた街々を思い出す 昼時になるとどこからともなく聞こえはじめる男たちだけの声 歌に似た抑揚がある 偉大なる山の雪解け水が流れる河を詠むような声 聖典を読む祈りの言葉 異国の地でわたしはひとりだった 市場の雑踏と土埃にまみれながら孤独だった 誰とも なにも共有しえなかった 痛みも 歓びさえも
念仏は続いている 経本に書かれた文字がだんだんと読みづらくなってゆく ついに女が立ち上がり電球をつけると ぽっと息を吹き返すかのように座敷が明るくなり 女たちの丸まった背中の後ろ姿が並んでいた わたしはそっと橙色の数珠を引き寄せて膝の上に置いた この数珠をわたしの子に譲る日がいつか来るのだろうか いいや その時には新しい数珠を買ってやろう その方がきっといい