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春のぬかるんだ土が冷たい 雲雀はまだ歌わない 鳶はこのところよく飛んでいる 農夫たちが畑を耕し始めたからだろう 果てしなく広がる集団農場のうえに青空 冷たい風が吹きつけ それでも太陽の輝きが嬉しくて歩きつづけた
身体以外なにも失うものがなかったあの頃 若さと健康だけを頼りに 愛があれば暮らしてゆけると信じていた 寒さと貧しさが錨のように沈み込んでいた日々に戻りたいとは思わない
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通りすぎた季節と降りたことのない停車場 話したことがなかったひとの訃報
午後 電話がかかってきて一方的に予定を変更されたので もう無かったことにしたいし そうするつもり
訪れて 結局 入らなかった場所をもうほとんど忘れてしまった 青梅街道沿いの住宅街で 地下鉄の駅からそれほど離れていなかったと思う その近くにある喫茶店では 品の良い格好をした家族連れがサンドウィッチ・セットを食べていて ガラス一枚で隔てられた喫煙ルームの方を疎ましげに時折見ていた というのも母親らしき若い女と一服するわたしの目が何度かあったからだ あの店の名前はなんと言っただろう どこにでもある系列店だったと思う
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彼女と初めて出かけたのは雨の日だった それからいつも ふたりで出かけるときには雨が降った とても降るような空でない日でさえ 突然どんよりとした雲が広がりだし ぽつぽつと地面を濡らし始めたのだった
わたし自身は雨に降られるということは滅多にないので 折畳み傘なんてものを持ち歩いたことがなかったのだけど 彼女はいつだって鞄の中に潜めていた 大きな手提げには晴雨兼用の傘が ちいちゃな革製の鞄には軽くて細い折畳み傘が入っていたのだ わたしといえば家を出るときに降っていたら使う大きな傘の一本しかない それでどうというわけでもないけれど 彼女と出かけるときは雨に濡れた 今日こそは降るまいと信じて出かけたから
雨の日 彼女から結婚披露宴の招待状が届いた 宛名のインクが濡れて滲んでいる 宴の日はどんな空模様だろうか少し心配ではあるけれど いつかふたりで歩いた夏の夕立ちのことを愛おしく思い出した
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どの改札を通るときにも思い出すひとの貌がちがうので 行く先を間違えることがない 彼らのなまえが全て Aから始まることに気づいたのは最近のことだったけれど
駅を出てさいしょの角を曲がる直前 予感ではなく あのひとが歩いてくることを確信した いるはずのないひとの姿をわたしは知っている 会うべきではないひとと偶然に出逢うこと それは初めて出逢ったときと同じように 予め決められている
愛も救いもない 運命と呼ぶにはあまりにも空虚な瞬間 歩道のない道路をあのひとは歩いていた 大きな荷物をさげて まえと変わらない様子で
日活ロマンポルノならこのあとわたしたちはふたりきりになれる場所に駆け込み何もかも脱ぎ捨て生まれたままの姿で飢えた獣のように求めあっただろう擦り切れてもういっそ消えてしまえたらいい殖えることを望まないふたりが貪る肉慾は嫌悪と恥辱のうちにあるのだから未来もなにもない
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このところ音楽を聴くことがめっきりなくなってしまったので 久し振りに連れていってもらった 並んで椅子に座りては膝のうえにおいて 静かに聴く音楽 パンフレットを見ると演奏家たちはみな一流と呼ばれる音楽大学や芸術大学を卒業しているとある いつだったか祖母が うちの親族に芸術家や女優はいるけれど音楽家はいないと言ったので 一族みんなして音痴じゃないと一蹴してしまったことを思い出した 舞台のうえでドレスの裾を広げながら弦楽器を演奏する年配の女たち 彼女らは恐らくみな子供の頃から楽器を演奏し それを用いて競争し 選び抜かれてきたのだが 一体どのような生活をしてきたのか想像もつかなかった これまでに何万回練習し 何万曲 弾いたのだろう 十年 何十年と!
しかし演奏をはじめた彼女たちはほとんど無表情だった 笑わないでも演奏は出来るけれど それはわたしが好む音楽ではなかった