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B.Bと呼ばれたあの有名な女優と同じ名前をもつ美術教師は 初めて会った時からわたしのことを気に入ってくれた どれくらい気に入ってくれたかというと 単位を取らなくていい講義の時間には自分の授業を受けたらいいと強引に空き時間を埋めてしまったり 違うクラスの授業のときでも出席を認めたりしたくらいだ

プラチナブランドの髪と ふくよかな体型に化粧気のない白い肌で 彼女の年齢は判らなかったけれど 実はそれほど若くなかったのかもしれない
彼女の部屋は学舎の一番上 塔の中にある丸い部屋だった とんでもなく散らかっていたけれど 油絵の具の匂いがして心地よかった 家には一度だけ連れて行ってもらったことがある わたしたちは台所で一緒にサーモン・ムニエルを作りながら食事を摂った サワークリームに散らばめられた黄緑色の柔らかなディルの香り 黒く濡れたランプフィッシュの卵 雪の日のことだった わたしたちは間接照明の光が穏やかな寝室のソファに並んで座り 電話帳より分厚い美術書を読んだ というよりは眺めた そうしながら彼女は月に一度 首都へ行きセラピーを受けているのと話し始めた
北国の夜は早いので 私たちが会った時すでに陽は暮れていたのだけど あまり遅くならない内にと 彼女は旧型のメルセデスに乗せ家まで送り届けてくれた 道中 吹雪が止んだ雪道は家から洩れる光や 橙色の街灯やらすべての光を反射してやたら明るかったのをよく覚えている

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その街を訪れたのは まだ一度しかなくて 今後また訪れるだろうかというとわからない かつて優しかった男たち 神に仕えていた男や 海で働くことを生業としていた男たちとは もう会うこともないので あの優しさが本当の真心であったかどうかなど 今となってはどうでも良いことなのだけど 彼らが生まれ育った街は 穏やかで感じが良かった わたしは彼らの優しさが怖かったけれど

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揚げたてのコロッケを頬張りながら こんな風に お腹も空いてなかったのに助手席で食べたことがあったなぁと思い出した 駐車料金を支払うのに小銭がなくて 近くの精肉店であの人はコロッケを買ってきたのだった
あの人は少しも誠実ではなかったけれど コロッケはそれなりに美味しかった 気がする

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汗ばんだ背中を手で撫ぜたときの感触を思い出していた 
会議は終始水の掛け合いで終わり なにも生まれなかったし 壊されたものもこれといってなかった もしかするとそれ自体が夢だったのかと錯覚するほどの退屈 沈黙していることが賢明だと考えられたので 黙って傘をさして座っていたのだけど 誰も気にしていないようだった

水浸しになった部屋は不愉快な臭いが漂い ぜんぶ漂白されたらいいのにと思った

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水槽の掃除をすること
流されないように注意すること

日没が早くなり夜明けは遅くなった 北方では間も無く雪が降り始めるだろう 今年こそ手編みの手袋を完成させることが出来るだろうか ほどいては編んで 子供の手は少しずつ大きくなる やがてはわたしの手よりも大きくなるだろう

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ニルゲンドヴォに秋が来たというので 遊びに行くと 村の入り口でちいさな妖精たちが赤やオレンジ 茶色のペンキで汚れた服でふざけていた どうやら樅木を紅葉させようとしていたらしいが あまりに背が高いので諦めて地面に手形を付けて落ち葉が積もっているようにしてきたらしい そんな馬鹿なことをしてはいけないと窘めると げらげら笑いながら秋桜畑の方へ行き 大きな声で花占いをし始めた
すき きらい すき きらい すき きらい すき すき!
げらげら笑い転げて また花びらをちぎる
すき きらい すき きらい きらい すき きらい すき!
何度やっても好きで終わらせるのだった

呆れて家に入ると 妹が真剣な表情で菊の花をむしっていた すき きらい すき きらい… こちらはだいぶ時間がかかりそうだったけれど やはり最後のほうでずるをして 2枚一緒にちぎって好きで終わらせていた
花びらはその日の夕食に出たスープと浮かんでいた

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鳥は歌わぬ 都会の午後に
愛は流れぬ 淀んだ水辺を
風がそよぎて木々は揺れ
哀しげに笑う顔を隠した

他人になれたら楽なのに
いつまで経っても愛しい
もう一生会えないとても
忘れないでと私は言った

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することもないので映画を観ていて思ったのは それなりに疲れるということで 泣きながら鑑賞したわりに話はあまり記憶に残っていない 安い涙だった
どうしたって疲れてしまう 気圧のせいにしたいけれど 実はあまり関係がなくて よく晴れた気持ちの良い日にも頭が痛むときは痛い

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また嵐が近づいているので ボルシチを作ってパンを焼いておこうと思う 新鮮なセロリが手に入れば良いのだけど

詩を書かなくなるのは何故だろうと聞かれた彼女は 生活を営むことに専念するからじゃないのと答えた 食べるのが楽しみになる美味しいご飯を作ること 床と窓からを磨き 部屋を綺麗に保つこと ゆったり休む為のぱりっとした白いシーツを敷いたベッドを用意すること そういうことに専念していたら時間がないのよ でも書かなくなるわけじゃないわ その時に感じた衝動を忘れさえしなければいつだって書くことが出来るから そう言って彼女は辞めたはずの煙草に火をつけた 夜明けは近い

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ちいさなダイヤがついたゴールドのペンダントが欲しい そう 白いリボンがかかった水色の箱に入ったあのブランドのやつ でもたぶん似合うのはプラチナだからそっちがいいかな なんて ジンクスではゴールドのチェーンで0.05カラットくらいの無色のダイヤがついたのを自分で買わなきゃいけないらしいけど それより自分が好きなのを買った方がいい 胸にゴールドのピアスを埋め込んでいたときは 毎日大きなスワロフスキークリスタルが見えてとても嬉しかったけれど インプラントはもうやらない 2回も千切れたら充分だった あぁ あのダイヤのペンダントがほしい 買いにゆきたいな いつの日か そんなに遠くない未来にでも