1325

微睡んだまま手脚を動かし 俯せの体勢から膝を腹の方へ寄せて腕を頭のほうへ伸ばし 猫のように伸びをする 右へ 左へ 肩を鳴らしながら さっき見ていた景色が夢だったんだと朧げに思い出して 少しだけ安堵した あまりに深く 透明な海と そのなかを泳いでゆく沢山の魚の群れのこと 夢で見る海はいつも透き通った翡翠色をしているし 魚は銀色の鱗を持っている

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死に至る病というよりは 性質の悪い風邪のようなものだった あなたが幸せになってほしいし わたしも幸せになるべきだからなんて格好をつけていたけれど 彼では彼女を幸せに出来ないと見切りをつけただけのことで ただ時間がかかりすぎたのだ 長い目で見れば大したことではないにしても 終わってしまえば どうということはない 流れない河は澱んで濁り 水面を漂う浮草だけが活き活きと深緑色に輝く

澄んでいきますように


2,000日の眠りから醒めたとき 嵐は過ぎ去っていた あの日生まれた子供たちは 今やたどたどしくも自分の名前ならば漢字で書けるし 補助輪なしの自転車にだって乗れるようになっていた 彼女は仕事を見つけ 税金を納められるようになり 穴の空いた下着を繕うのをやめた それがどうしたのかと言えばなんてことはない いずれ忘れてしまうだろう プリズムで分散した光が部屋中に広がりラジオが女優の訃報を告げた

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完全に心が戻らない
乾いた唇と唇が触れ合うほんの数秒間に 色んなことが思い出されて この関係性がもう終わりに近いこと または生涯にわたって続けられることを感じた 相反する想いが 結局は実らない恋であることを確信しているのはわたし自身の理性によるものであり 断つことを選ばないのは甘えであるのだけれど どうしようもない そして それ以上の何も望まないのは心がもう無いから

あのひとの唇は枯れ葉のように乾いていた

1321

ふるい映画を観た 非常によく知られた曲が今なお新鮮さを失っていないと人気で 曲だけを知っているひとも少なくないと言われている マトカは若いころ汽車を乗り継いで街の映画館まで観に行ったというが 肝心の内容は忘れてしまったらしい 実際のところわたしも鑑賞後に印象的だったのは かの有名なダンスシーンで 他のことは朧げにしか残っていない 確かにどきどきするような逢い引きや 危険な取引を命がけで行う場面もあったのだけど しなやかな動物のように 咲き誇る大輪の花のように踊る姿と比べれば 記憶に残らないのだった 優れた作品というものはそういうものなのかもしれない 或いは愚直に感動を味わいたい大衆向けとも言えよう そこから何か無理に産み出そうとする必要などないのだ 何も考えずにただ感動して流す涙の熱さに気がつけたらいいし 気づかなくたっていい

1320

くたびれた身体を起こし 顔をあげると大きな月が見えた こないだの満月は雨で見えなかったけれど まだそれなりに丸いし とても明るくてきれいに光っていた

青い色が好きだ 大好きな空も海も青いから 初めて作ってもらったワンピースは青いギンガムチェックの生地で 我ながらよく似合っていたと思っている 海で拾うガラスの色も好きだった 大抵は白か茶色 ときどき緑色があるくらいで 青いガラスは少なかったのだけど

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幾つかの通り過ぎていった景色を思い出して 継ぎ接ぎの記憶を辿れば 短い夏が出来た 初めて出会ったのは雪の日だったのに ぜんぶ夏になるのはどうしてなのだろう たった500日ぽっち 2年にも満たない時間 わたしは確信している ふたりが流れていた河がもう二度と交じりあわないことを 執念深く探し続けていた宝物が 今ではもう何処にもないことを すべて蜃気楼だったことも

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すこし肌寒くなってきたので 空気の香りを変えた 夜に咲く花だけを集めて煮詰めた甘い匂いは 山で拾い集めた骨に染み込ませると ただ瓶から放つよりも長いあいだよく香るのだ 肉がこそげ落ちた大きな角のある動物の頭は 焼かれた骨と違ってまだ温もりを感じさせるような色をしている 触れると硬く冷えているのだけど

1317

男の顔は履歴書とか 30歳の顔は生き様とか言えど 見た目なんてそれほど重要ではなかったはずなのに なんだか一気に冷めてしまって なんてことだろう あの人はもうかつてのように嵐に立ち向かうことも 青々と広がる海に帆を張って船出することもしない だろう いや出会ったときからそんな人ではなかったかもしれない わたしが勝手に夢をみていただけなのだ 魔法が解けてわたしは空の色を思い出した 太陽の眩しいことよ