810

砂利道をゆっくりと歩いた 昼下がり 風がすこし強い そういえば今年は春一番を聞かないうちに季節が変わっていたんだ

木枯らしのことも知らなかった 知らない間に年が明けていたんだった

 

声を聴きたい そう思うけれど なにも話すことがない 聞きたいこともない 電話は好きじゃない 次にいつ会えるかだけ教えてくれたら切ってくれて構わないとさえ思う でも あなたの声が聴きたい

 

雲雀が歌うように 風が轟くように 蜂が花から花へと飛ぶように 雨粒が窓を叩くように 木々の枝葉が揺れるように 河が流れてゆくように あなたの声が聴こえたらいいのに

あなたの声が聴こえたらいいのに

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809

白いライラックにはとても悲しい伝承があるので この花が5cmくらいの冬に咲くオレンジ色の花だったら良かったのにと思う でも一体 ベンジーはどんな花を想像していたんだろう

 

街角に咲くリラ 降り注ぐ光と芳香 5月の風 誰もいない目抜き通り 安寧のなかにただひとりいることを孤独だとは思わない

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出来レースの勝敗に先生は狼狽していた 安心していいよ 私たち3人とも留年間違いないから 当分ここにいるよ 心配しないで

 

副委員長は聞きたいことなんかないのに とにかくなにか質問しなくてはいけないと思っているから 見当違いなことを言って途中から聞かなくなる 委員長が時計の針を気にしながら 無理矢理話を終わらせた ひとつも決着はつかなかったけど とまれ休暇だ!

 

807

好きなひとの為ならどんな苦痛でも耐えられるということ 苦痛に耐える自分自身が好きということ 苦痛を味わうのが好きということ 被虐趣味の性癖は様々な要因があるけれど 自分以外のために苦痛を選ぶのは悲しいことだと思う 加虐する人たちが求めているのがなにか 見極めなければならない それは容易ではないことだ

ところでわたしはもう何も耐えられない 誰かの為に耐えることもしたくない そして誰かがわたしの為に耐えているとしたら それこそが一番耐え難いことなのだ 早く楽になりたい 口が裂けても言ってはならない暴言を吐いてしまう前に

 

まだ若いから なんでも出来るわ 健康だから 綺麗なのに 勿体無い 良い学校を出たのに 選ぶからいけないのよ 理想が高すぎる なにがしたいの それは無理よ 絶対に駄目

 

なにが出来るっていうの

 

 

わたしは自分自身のために腕を切る 鋭利な刃物が肌を切るのに痛くないはずがない 皮膚が裂けて 白い皮膚の間から滲みだした丸い血の雫が隣の雫と繋がって大きな楕円になり 涙のようにぽろぽろと落ち始める もうこれしか出来ない 腕についた何本 何十本もの白い線は古い傷 そこへ重なってゆく赤い線 もうほんとうに何をするのは良くて 何をしたら駄目なのかわからない わたしは わたしの愛するひとが幸いであることを祈ること以外にどうにも出来ないけれど せめて そうすることは出来て佳かったと思う

806

髪を染めたり ピアスをつけたりして 同僚を誘惑しないようにと言われたのは 単なる忠告ではなく ある意味では侮辱であるが わたし以外のひとが許可されている点を考慮すれば 特別に魅力があったというふうに考えたならば優越でもある けれどもし髪を染めるなら 断然くすんだ青色がいいし ピアスを開けるなら0ゲージまで拡張して そこにアナトメタルの上品なゴールドのアイレットを嵌めたい きっと長い青髪から覗く耳朶の孔には不思議な世界が透けて見えるだろう 

805

とてもたくさん歩いた気がするけれど 歩数計を見たら6,000歩ちょうどだった

歩くのは好きだ ひとりで川沿いをゆくのも好きだけど 好きなひとと一緒にあてもなく手を繋いで歩くのはもっと好き どこまでも陽が沈むまで道が続く限り そうして歩き疲れて公園のベンチに腰掛けながら「どうしてこんなところへ来たの」と尋ね 彼は「君が来たんだよ」と答える

わたしたちは恋人でも 友達でもないので 行き先はどうだっていい 街灯のあかりがぽつぽつとつきはじめ わたしたちはまた歩き始める 「もう帰らなくちゃ」「そうだね」それからふたりで口付けを交わしてから「また明日ね」と別れた

804

今すぐにでも外に出るべきなのだと思う 駄目になってしまう前に でももう手遅れだ 電車に間に合わなかったから

 

毎日とても眠い どれだけ眠ってもまだ 身体が浮いているみたいだ なにもすることがない しなければならないことはあるけれど

802

目の周りが乾いたように感じる そうだ さっき少し泣いたんだ

 

 

水曜日 そうだ 今日はまだ週半ばだった あまりに多くの出来事が起きて まだ混乱が続いている むかし働いていた住宅販売会社では契約が水に流れると言って水曜日が休みだった 流れるように生きるより もっと根を張り伸びるのがいい 成績は悪かったが 実際 家はそんなに悪くなかったんだがなぁ そうだ 根無し草の兄が死んだのだ あの穀潰し 親父が死んだから遺産は全部俺のものだなんて 全部すっちまってよう どうするんだ なぁ また逃げるのか 地球の裏まで

 

 

ミュゼウムで上映されている映像で流れる音楽をとても懐かしく思ったので 隅っこに立っている女に何という曲名か尋ねたら ちょっとわからないと言われた 「なにせ随分古い映像ですので」「これもアルメニアの音楽なのかしら」「ええ それは確かなんですけどね」

女から離れたあとでわたしは少しだけ泣いた

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綺麗な水を手に入れるためにひとは深い井戸を掘らねばならないが 普通の生活を送るためには 普通の人間にならねばならない 抜きん出ても 埋もれていてもいけない 人並みになることの難しさ 苦痛ばかりが土壌に染み込んでゆく ここらの土地はもう駄目だ 恥辱ですっかり汚染されてしまった どれだけ土を掘っても塩水しか出ない 割れた爪の間に泥 娘としても女としても努めを果たせなかったことは 何者にもなれないということよりもずっと惨めで それでもまだ生きていなければならない 岩だらけの荒地で