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好きなひとの為ならどんな苦痛でも耐えられるということ 苦痛に耐える自分自身が好きということ 苦痛を味わうのが好きということ 被虐趣味の性癖は様々な要因があるけれど 自分以外のために苦痛を選ぶのは悲しいことだと思う 加虐する人たちが求めているのがなにか 見極めなければならない それは容易ではないことだ
ところでわたしはもう何も耐えられない 誰かの為に耐えることもしたくない そして誰かがわたしの為に耐えているとしたら それこそが一番耐え難いことなのだ 早く楽になりたい 口が裂けても言ってはならない暴言を吐いてしまう前に
まだ若いから なんでも出来るわ 健康だから 綺麗なのに 勿体無い 良い学校を出たのに 選ぶからいけないのよ 理想が高すぎる なにがしたいの それは無理よ 絶対に駄目
なにが出来るっていうの
わたしは自分自身のために腕を切る 鋭利な刃物が肌を切るのに痛くないはずがない 皮膚が裂けて 白い皮膚の間から滲みだした丸い血の雫が隣の雫と繋がって大きな楕円になり 涙のようにぽろぽろと落ち始める もうこれしか出来ない 腕についた何本 何十本もの白い線は古い傷 そこへ重なってゆく赤い線 もうほんとうに何をするのは良くて 何をしたら駄目なのかわからない わたしは わたしの愛するひとが幸いであることを祈ること以外にどうにも出来ないけれど せめて そうすることは出来て佳かったと思う
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目の周りが乾いたように感じる そうだ さっき少し泣いたんだ
水曜日 そうだ 今日はまだ週半ばだった あまりに多くの出来事が起きて まだ混乱が続いている むかし働いていた住宅販売会社では契約が水に流れると言って水曜日が休みだった 流れるように生きるより もっと根を張り伸びるのがいい 成績は悪かったが 実際 家はそんなに悪くなかったんだがなぁ そうだ 根無し草の兄が死んだのだ あの穀潰し 親父が死んだから遺産は全部俺のものだなんて 全部すっちまってよう どうするんだ なぁ また逃げるのか 地球の裏まで
ミュゼウムで上映されている映像で流れる音楽をとても懐かしく思ったので 隅っこに立っている女に何という曲名か尋ねたら ちょっとわからないと言われた 「なにせ随分古い映像ですので」「これもアルメニアの音楽なのかしら」「ええ それは確かなんですけどね」
女から離れたあとでわたしは少しだけ泣いた