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白い清潔な部屋のなかで 今際の際にいるのが自らだと想像してみる 別に砂埃の舞う路上でも 虹色の油がにぶく輝く波が押し寄せるごみだらけの海岸でもいい とにかく死にかけているところを

想像してみる それは単純なことであるのに 容易くはない

 

独りで死んでゆくのは寂しいと彼女は言う 夫や子供たち そして孫に囲まれて穏やかな最期を迎えたいと願っている そのために結婚しなくてはいけないとさえ言う わたしは死んだあとのことなんてどうでもいい 荼毘にふされようと 犬に喰われようと どうでも構わない 生きているときのことの方が重要なのだ 死は誰にでも平等に訪れる 生きるということは当たり前のことではないのに 忘れてしまうのだ 呼吸をするのに意識しないのと同じことで

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切り離された内臓の柔らかさ ついさっきまで皮膚と肉と骨のしたにあったというのに 赤くなった生理用食塩水のなかに浮かぶ冷たい塊になった 6月が始まる 夜の森では鷺がぎゃあぎゃあと鳴き叫び 狼が吠えている 闇のなかで抗うことが出来るからもう肺病なんて怖くないはずなのに 武器はあっても守ることが出来ないなんて

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いつもの店で 同じひとを指名して 前と一緒の物を選ぶことに 彼らは不満もなにもないので わたしはどんどん鈍くなる 新しい音楽を探すことが億劫になるみたいに

なにも変わらないと盲信することほど危ういことはない 永遠なんてないと誰もが知っているはずなのに 自分だけはと取り残されているのに気づかないだけだ 鏡に映っているのはほんとうの姿だろうか?

 

髪を切らないでと言ったとき 美容師の男は嬉しそうに笑って 似合うと思いますよ と言った そしてとてもうまい具合に揃えてくれたので 本当は彼が好ましく思う髪型にしても良かったくらいだった 実際その方がいいだろう 彼の腕は確かだから

 

わたしらしくない色が相応しくなる季節が来ている そのときに聴こえる知らない音楽を 愛すことが出来るようにしなやかでありたい

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深夜 窓を閉ざしたはずの部屋に蝙蝠 換気扇の隙間が怪しい それ以外はどこにも穴なんてない

羽音で眼が覚めて夢うつつのまま身体を起こした 爪でなにかをひっかくような音 旋回する羽音 ちいさな衝撃音 渋々起き上がり 灯りをつけて窓を開けると ほどなくしてちいさな黒い翼をもつ哺乳類は丑三つ時の闇へ消えていった

 

 

静かさを取り戻した部屋の中で聞こえてくるのはちいさな羽音だ わたしの身体のうえを旋回しながらゆっくりと降りてくるちいさな哺乳類 聞こえないはずの声 受け入れなければならない 何を? どのようなかたちであれ愛さねばならない 誰を? わかっている わたしは脚を開いてあなたを迎え入れる 望もうと望むまいとも

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下腹部に鈍痛を覚えるたび あのひとの子供が欲しかったと思う あなたの子供が欲しかったと言った凍えるような真冬の夜のことも コートのポケットのなかで繋いでいた手を 一瞬つよく握ってくれたことも はっきりと憶えている 死にそうな顔をしていた あるいは死刑宣告を受けたように悲愴な表情でいて なのにふたりとも涙の一滴も流さなかった そういう人間だから


そういう人間だから

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頭痛 休みがくるたび身体がだめになってしまう それでも今日はましなほうだった

 

宇宙人との交信について 恐らくそれは不可能だと彼は言った わたしは 彼等が存在するとして 同じ時間軸に生きて 同じような形態であることを前提とした場合はダメかもしれないと答えたけれど あまり興味もなかった 頭が痛くてそれどころではなかったのだ

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胸にちいさな金属を埋めている チタン製の土台についているのは金色の縁で囲まれた透明のガラスだが 光があたると金剛石のようにきらりと輝く

 

孔をあけて一番最初に見せたのは 一番好きなひとだった 会って一番に耳を確認して なにもついていないことに気づくと 不審そうに何処に開けたのと言ったので 内心わくわくしながらシャツについた一番上のボタンをはずして見せると まだ血がにじんでいたので彼は怯んだ表情を見せた 彼は血を見るのが一番苦手だったから

 

 

ハニーがわたしの胸を見ながら あんたの身体の何処にも穴が貫通していないのは不思議だわ と言ったので 痛いの駄目なんだ と答えた タトゥーも入ってない と彼女はわたしの全身をまじまじと眺めながらライムサワーを飲んだ くし形に切られた緑色の果実がシャンパンゴールドの炭酸水中で氷に押されながら揺れている 仰向けのままタオルケットを引き寄せ まだ入れたい絵が浮かばないから と言った それは本当にそう

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思いがけず瓶を開けたら煙が上がったので わたしはカティ・サークのように揺れている 空を見上げれば水夫は汽笛を鳴らして 帆は風を受けて力強く張られていた 白鯨がいない海で何を目指せばいいのだろう

透きとおった細いグラスが光を受けて煌めく あなたは水滴を爪でなぞりながらまばたきをした

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庭に毒草ばかり植えていた女のことを 魔女だと思っていたのだが 林檎を喉に詰めて死んだのだった 鈴蘭と狐の手袋が咲く庭の 畑に実る苺を誰も盗みにやって来ない 魔女ではなかった女の娘が育てた苺は歪なかたちをしている

 

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