880
いまではもう踊りかたをすっかり忘れてしまった テキーラの焼けるような熱い甘さとか 革張りのソファの柔らかさとか どのようにして過ごしたんだろう いつかの夏 N市のクラブで 屈強な身体付きをした海兵隊の男や 陽に焼けた肌が美しい若い女たちと一緒に明け方まで踊り続けて なにが というわけでもないけれど とにかく楽しかった 心が感傷で痛む速度を通り越して ミラーボールは煌めきながら回る 真夜中の太陽のように
長い黒髪に白い花を飾った娘とは ごく自然に惹かれあい 口付けを交わした ダンスフロアで身体を寄せ合い とても原始的な方法で欲望のままに求めあったことを いつまでも憶えていたい 美しいものを純粋に愛でること 第三者の常識に囚われぬこと ひと夜限りの夢は短い
873
氷砂糖に漬けた青梅はゆるやかに成熟し 透明な液体のなかに浮かんでいる 溶けきっていない氷砂糖は白い輪郭を持ち沈み 揺らすと砂時計のようにさらさらと動くのが楽しいのか 彼女は瓶を抱えながら何度も揺らして遊んだ
子供の頃の思い出に梅酒はない 親戚の誰かが漬けたのをもらってこっそり飲んだこともない 庭の隅に実った梅は全て干されてしまったから
おばあちゃんがつくる梅干しは塩辛くてとても食べられなかった 冬にそれを焼いてお茶に入れたのを飲むのは好きだったけれど 塩の結晶が紫蘇と同じくらいついてきらきらしていたのだ
梅酒は本当に身近になかった だからわたしも梅酒は漬けない 子供も飲めるようシロップにした
872
すてきな男の子たちは 大抵だれかすてきな女の子と一緒になっている 薬指にひかる指輪がきれいね ひとりぼっちでいる男の子や女の子がダメいうことではなくて 恋人同士の遊びよりすてきなことを知ってたら仕方ないし 人生は短すぎる 楽しい時間は特に
ふだん全然几帳面じゃないのに 抱けると思って こまめにメールをくれるとこが好き いいよ 抱きたいならそうすれば好い それ以上でもそれ以下でもない対等な立場であるなら結構 早く始めましょう 人生は短すぎる ふたりの気が変わる前に 早く
苦痛抜きの快楽がほしい なにも考えずにひたすら溺れるだけの愛がほしい 人生は短すぎる 死ぬにはまだ早いだなんて それだってもうどうだか
871
「また連絡してね」と言う こん畜生め 悪いおとなばかりだ! 台風が過ぎて 街はびしょ濡れになり アスファルトのあちらこちらに虹が浮かんでいる 幼いころによく棒でつついて遊んだものだけど あの正体を未だに知らない たぶん自動車の油だというのが我々の結論だったけど
また遊ぼうと言って もう遊ばなくなった友達は沢山いるけど 直子ちゃんは違った どうしてかわからないけど「最初で最後かもね」と言った 直子ちゃんは足が速かった わたしも一緒に走って でもそれだけ 直子ちゃんと遊んだのはそれが最後だった おとなは遊ばないから
ああ 冒険がしたい まだ行ったことのない山へ行って 木で作られた階段を登ったり 沢を歩いたり 綺麗な花や夕焼けを眺めたい それか まるで少年のように街へ出たい キャップをかぶり スニーカーを履いて遊びに行きたい