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あまりに短い10年だった なにを成し遂げたのか いや なにも為すことはなかった ふたりの友人が自ら命を経ち また別の友人は双子を産んだ アロワナはまだ生きている 最低賃金はあまり変わらないけれど 煙草はかなり値段があがった 新人賞を受賞した若手は今ではそれなりの権威となって いつか誰かがいた席に落ちついている それはわたしが暮らす日々とは全く別の世界の話だ たとえ新宿駅構内ですれ違ったとしても

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本当のことを話しているときに限って 物語を聞いているみたいと言われるのは心外だけど ある意味では毎日が休暇中の冒険のようなもので そこへ嘘を混ぜるとちょうどいい温度になり すっと溶けてゆく 淹れたてのブラックコーヒーに 角砂糖を落とすように 誰に知られることもなくひっそりと しかしそれを味わった者だけが その甘さを知っているのだ

 

本当の話

本当の話

 

 

 

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輝いていた10代が懐かしく見えるのではなくて 今よりもマシだったというオチ 悪い報せが無いのはいいことだ みんなが満足しているなら 他人の不幸を探そうとはしないから

 

隣の芝生に除草剤を撒いたのは 見たこともないぜんぜん知らないひとだった ベランダから犯人を撃った隣のおばさんは牢屋に入れられてなっとくがいかない 傷口が痛むと言いながら犯人は 芝生の青さにむかついたと吐き捨てて お望みどおり芝生は枯れた こんな酷いことってないな

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プラトニックであることに理由も意味もない すぐそこに違う世界が並行して存在している かもしれない幻想 21世紀とは思えない砂埃の舞う荒地で 彼は砂糖黍の茎を歯で齧っている それは幼かったころの夢 より良い日々を送れただろうと期待するだけの

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化粧水とクリーム それからリップクリームを買うこと 色んなのを試したけど 結局 香りとテクスチャーが重要で 効果というのはどれも同じくらい良かったから 安いのを幾多も買ってあちこちで使って失くすよりずっといい 香りはするのが良いは限らないけれど パラフィンの匂いが漂うのはもう絶対にいや

 

新しいアイシャドウは 夏を偲ぶ黄昏の色をしていて 目蓋を濡らすように煌めくのがすてきなのに まだ一度も開けていない 試したときはまだ8月だったけれど いまでも似合うかしら

 

リキッドタイプのファンデーションに美白パウダーを混ぜて肌に乗せると マットな質感になり すっと肌に馴染んでゆく フォトショップみたいにするりと陶器肌になれる 去年の今頃は肌が荒れて それはたぶん下地が合わなかったせいなのだけど 結局のところ原因がわからなくて でもこれさえ付ければもう安心 なんてね

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昨日みた夢には 10年くらいまえに親しかったひとがたくさん出てきて 少し懐かしいような気持ちになったけど 目覚めたところで 誰の連絡先も知らないことを思い出した

苗字が変わってゆく女たちのうち 何人かは元の名に戻した ニルゲンドヴォでは決してありえないことだった 彼らはみな同じ父と母から血を分けて生まれたから 与えられた名前以外に変えようがなかった

 

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芝生に朝露が残っていたので そのまま靴を脱ぎ 裸足のままで歩いた 湿った草の温度と動物の匂い 太陽が遠くの山の端から登りだしている 静謐と黎明のひととき 鮮やかさはないが 色彩が明瞭であるということ 空は澄み渡り 雲のひとつもない 

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遠い空に残っている積乱雲の白さが 夕陽で赤く染まり ほんの少し秋色になっている 田畑はもう豊穣のとき 農夫たちは健やかに育った稲穂を刈り取りにゆく かつてからここいらは やはり穀倉地帯であった 肥沃な土地であったのだろう 変わらずに人々が暮らし続けているのだから 

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旅券を申請しながら あのひとの故郷のことを思い描いた 午後の陽射しは残暑のそれで しばらく坂道を歩いただけですっかり消耗してしまったが 休む暇もなかったので歩き続けた

わたしが知らないあの人の暮らした町 あの人もまた わたしを知らない 名前を奪われ 言葉を蔑まれ 歴史を踏みにじられて 運河と通りだけが変わらずにある町を いつか訪れる日が来るだろうか