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髪をあまり切らなかった 美容師の男は「年内にまた会えると良いですね」と言った 本当にもうそんな時期だった 年を迎える前にもう一度綺麗に揃えてもらえるように予定を立てるべきだろう

それから服屋へ新しいコートを見に行った カシミヤが混じっていると本当に軽くて柔らかいから素敵だけど 襟のないデザインしか無かったので辞めた ここらは少し寒すぎるのだ

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労働のあとで買い物へ行った 千円のインナーと一万円のインナーが同じビルの中で売られているのは単にそれだけ色んな人が来るからなのだけど わたしはかなり場違いな格好をしていた つまり ぼろぼろのコートを着て 壊れた靴を履いて ふかふかの絨毯のうえを歩いたのだ! まるで悪いことをしているようだった 実際古いだけで 傷んでいるだけで 汚れているわけでもないのに 酷い悪戯をしているようで妙にわくわくした

肥った金髪の女は とんでもなく派手なピンクのファーコートを試着しながら こないだ買ったブルーと色違いで欲しいのよねぇと 金縁の大きな鏡の前でポーズを取っていた 何処へ着ていくのか見当もつかないが きっと彼女の暮らす世界には必要なのだろう 原価のことを考えてはいけない H&Mで似たようなのが100分の1の値段で買えるとしても それぞれの暮らしがあるのだから

 

会釈をして彼女の縄張りを抜けると 店員は慇懃に「ありがとうございました」と言った それからスーパーに寄り 半額になったコロッケを買った

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自分のことくらい自分で蹴りをつけろよ 見ず知らずの他人に口を出されるのは嫌なくせに 身を任せるのはどうして 或いは目的は達成されたのだろうか 本当のことはいつでも夜のうちに流されてしまうのか

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わたしはもう死んだひとしか愛せない 解散した楽団が演奏していた曲の録音を繰り返し 解体された国の伝承を読みながら 誰も来ない停車場でひとを待ち続けている 空は遥か彼方で轟くが雪は音もなく降る そのことを教えてくれた伯父は七年前に死んだ 惨たらしくも彼の経営する農場で働く奴隷たちに 槌と棍棒で叩き殺されたのであるが それが実は人違いであったなど もう誰にもわからなかったしどうだって良かったのだ しかし事実 伯父はいなくなった 運良く難を逃れた暴君は伯父の妻をさらって逃げたが 彼女のほうは途中 河を渡る際に自ら流れに身を投げたという しかし遺体のことは知らないので何処かで生きているかもしれない

わたしはもう死んだひとしか愛さない 木箱の中に詰めたちいさな白い歯 そして爪 雪は音もなく降りあたりを白く塗り潰す すべてをこの目で見届けてから幕を引くために 待ち続けている 錆びた刃を抱いたままで

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木枯らしが吹いたという 夏からずっと地下室で働いているので 街がどのように変化しているのか すこしも知らなかった もう冬なのか やけに眠いはずだ 太陽をもう何日も見ていないが 恐らく春までもうお目にかかることはないだろう

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本当に誰でも良かったのだろう 諦めることに慣れて譲れないものが無くなった 生活と身体に以外に守るものがない そして実はみんなそうだろうとさえ思っている

望めば願いは叶うだろうに なぜ望まないのかと言われても上手く返せない 必要としていないから つまり望んではいないからなのだけど そうしないということが 社会生活を営むにあたり既に異質であること 個性は求められていない場に於いては あるべき姿であらねばならない そうするためには誰でも良かった 妥協だけだ

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旧い友人 そう 懐かしい人たちに会った 私たちは確実に歳を取っていたが まだ誰も死んでいないどころか 子供が生まれている者もいた とても良いことだと思う 健やかに生きてゆけるということは

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ワンピースの取寄せを辞めて DVDの予約をすることにした 去年の冬に観た映画で 見終わったあとに正方形のかたちをした薄いパンフレットを買って すぐ手に取れる場所に置き 何度も読み返している まだ見ぬ 恐らく生涯訪れることのない遥かな国の森を夢想するのが楽しみなのだ

 

映画館でわたしは泣いていた

なぜそうしたのかよくわからないけれど 生と死が曖昧になっていて どちらも尊く思ったのだ そういう映画だった

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ある瞬間から突然来なくなる返信に なにも求めない むしろ泥沼に嵌らなかったことに安堵すべきなのだ わたしたちは二人ともとても良い役者だった 理性を保ちながら欲望に抗わず ひと時の官能に耽ることは難しくない ただ微妙な温度の調節が厄介で 同じ速さで冷めていけることが重要 予め用意されたちいさな食卓のうえで スープが一斉にぬるくなっていくように

不適切な愛について あなたが早く忘れることが出来ますように わたしは未だに正しい愛し方を知らない