1039

「誰かのために無理をするのも 我慢をするのも辞めたほうがいい 報われることも救われることも求めるな 過ちに気付いたなら自己弁護に専念すること 何事も狡猾に しかしそれを悟られないようにしなければならない 他人は踏み台 脚を引っ張られないようにしろよ 這い上がるんじゃない 蹴落とすんだ 誰かがおまえを悪く言っても気にするな そいつが何をしてくれる? 信じるな 仲間という言葉を 協力と言いながら邪魔をする奴らを」


あほらしい もっと合理的にやれんのかね

1038

客間を片付けていたら古い腕時計を見つけた ちいさな濃紺色の文字盤に金の数字 ベルトは少しよれた細い黒色の革で出来ている 針は動いていない いつから止まっているのか それよりもいつからあったのか はたまた誰のものなのだろうか? 文字盤の裏には家族の誰のものでもないイニシャルが端麗な筆記体で彫られていた 手首につけてみると ちょうどいいところで穴が広がっていたので金具を上手くはめることが出来た 動かない誰かの時計 でも何処かで見たことがある色をしてるちいさな腕時計

1036

思いもよらないところで 思いがけないひとに遭った 停車場でバスを待っていたら 曲がり角から昔の恋人が現れたのだ しかし例によってひとの容貌を覚えられないので不確かではある もしかしたら他人の空似だったかもしれない わたしは驚いて目を丸くしていると眼があい 相手もこちらを見ているので 段々確信を持ちはじめる 新しい生活を始めた彼がこの近くに暮らしていないこともないのだ けれど今さら何を話すことが? 何もなかった 微妙な空気が流れ わたしは眼を逸らし道路のほうを見た 白い乗用車が何台も走ってゆく 赤や黒色の車両は一台も通り過ぎないうちに信号が青に変わり 駅前通り行きのバスがやってきたので 後ろを振り返らないようにして乗り込んだ 車内から外を見ると彼は停車場の椅子の前でこちらを見たまま立っていた 挨拶でもしたら良かったのだろうか 或いは全く知らないひとだったのだけど

1035

あのひとのことを段々思い出せなくなる 笑ったときの糸みたいな目とか 日焼けした逞しく腕とか 大好きだったのに どんなだったか言葉でしか覚えていない 忘れることと思い出せないことは似ていて でも思い出せないほうが悲しい そうして思い出せたことは ときに胸をずきずきと痛ませるのだった

1034

雪が降ったが昼前にはみな溶けてしまった ふかふかの白い綿あめのように降りしきった雪が 優しく身体を包んでくれないことも 街を埋めつくす白さが高潔である一方で悪魔のように残酷であることも ここらの人ならみんな知ってる

1033

誰かがその女を探しているらしい 構内放送で繰り返される名前 とても珍しい苗字と (もちろん発声されるときに漢字がなんであれ問題ないのだが) 初見では正しく読むことは難しい古風な名は 一度覚えたら忘れられることがない印象的な不思議な響きを持っていた 恐らく同じ名はこの世にふたりといないだろう 構内放送はしばし経ち 再び探している旨を繰り返す もう死んだはずの女 この世にいるはずのない人間の名を

この目で確認をしに行くべきだったのだろうか?

1032

クリスマス 家族への贈り物はちょっと良い肌着か靴下と決めているのだけど それでもなかなか種類が多くて迷ってしまう 別に贈らなくてもいいし 祝う由縁もないのに 街中の飾りは綺麗でわくわくするし ギフト用の包装紙は華やかでつい 何か包んでもらいたくなるのだ

そういうわけで百貨店で買い物を済ませ あとはクリスマスを待つばかり 信仰なき羊たちがイルミネーションの光に誘われて 今年一番の冷え込みになった通りを歩いてゆく それだって悪くない 主が来ても来なくても 笑えよ 来年のことならもう来月の話だから

1031

カレンダーをもらった 自分の部屋に飾ってはいないのだけど家の中に毎年 同じ会社のものを飾る定位置がある それは国内の風景写真が全体の6割くらいに印刷され 下には1ヶ月分の日にちが書かれているシンプルなデザインだ どこかの絶景とか 珍しい花や鳥が写っているわけではないので特に記憶にも残らない けれど下のほうにどぎつい蛍光色の緑色の線が塗られていて その色ばかり覚えている 給湯室でその事を話していたら相手も同じだったようで 親切にももらってきてくれた なんとなく これでもういい年が迎えられそうな気がした

1030

また何処かで会うかもしれないし もう一生会わないかもしれなくても 二度と思い出すことがなくても大したことないじゃない どうせ百年後にわたしがいることはないし なんらかの事情で存在が抹消されても 実在していた そのことを知っているのは自分だけで充分だ

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