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新しいセーターを買った 首が詰まった暖かい毛糸のセーターだ 何年か前に買った深緑色のセーターと同じかたちと肌触りをしている

 

特に何がというわけでもないのに ここ数年ですっかり顔が変わってしまった ある人は 女なら誰でも喜ぶと思っているのか 会うたびに「痩せた?」と言う 体脂肪計が当てになるなら15%をきるたび生理が止まるくらいで 実際の重さはそれほど変化していないのだから痩せてはいないだろう (やつれたというなら事実だ)

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いるべきところへ戻るということ あるべきかたちへ直るということ 公園の真ん中に置かれた回転式遊具は知らぬ間に撤去された 老朽化による劣化とその危険性を危惧して 危ないものは遠ざけられ 排除され やがてそこで遊んだことも忘れてゆく 寂しいけれど誰かが怪我をするよりはいいと思うようになったのはいつからだったのか

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このままぜんぶ無かったことにするか もう一度夏至の日に戻るか 通り過ぎていった季節と鮮やかな景色 夜の闇の中で初めて 輝ける光を知った 限りなく体温に近い空気に包まれながら わたしたちは戯れに欄干から身を乗り出して遊んだ その愚かさ 空虚な悦楽でつくられた思い出は 健やかさなどなくて でもとても美味しい

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温かい布団を出したので もうひとりで眠っても寒くないし寂しくもない 枕元にはウィスキーを 煙草はもう辞めたから グラスひとつあればいい  冒頭の3ページから進めずに埃を被った本を またいつか読む気になれるだろうか ならなくたって構いはしない いまは眠らなくてはいけないのだ なんとしても

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あなたの姿をまた忘れてしまいそうです 少し曲がった背筋や 細く伸びた長い手足 物憂げでいつもなにかを窺うような眼差しで話すあなたの貌を忘れてしまいそうなのです あのひとの眼はあなたに似ている そのことをわたしは絶対に話さない 同じ身長 同じ体型 同じ黒髪の巻き毛 囁くように話すところまで瓜二つの まったくの赤の他人を わたしは奪おうとして でも 出来なかった あなたはあなたである そのことはなにも苦しませはしなかったけれど あなたの姿を忘れてしまうのではないかということだけが恐ろしく 孤独であるのです 世界の果てで愛しているのが ほんとうは誰であるのかを 既に


わたしは

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北の町で暮らす叔父から小包が届いた 今年も雪が降る前に河へ行ったらしい 特に手紙らしいものも入ってはいなかったけれど 彼は魚を捕まえるのがとても上手いのだ 髭もじゃで 縮れた長い髪を束ねた大男だから私や兄が幼いころは ずっと 熊さんと呼んでいた 彼はよくある話のとおり その風貌に似つかわしくないほど優しく繊細な男で やはり穏やかで美しい妻がいたが よくある話のとおり 彼女は若くして死んでしまった 流行り病のせいであった これが悪い女なら長生きしたんだろうと思っている

 

小包のなかから丁寧につつまれた容器を取り出し そっと蓋を外すと 魚卵が詰まっていたので それを祖父が収穫した米を炊いたご飯にのせて食べた わたしも兄もこれが大好きなのだ まだちいさい兄の子は橙色の粒を摘んで潰したのを舐めて喜んでいた 汁が飛んで母の眼に入った わたしも昔 祖母の右眼に命中させたものだった

 

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手帳もカレンダーも持たないので 悩むことがない 家計簿は毎年同じものを使っている 突然中身が変わってしまうなんてことがあるなんて夢にも思わなかった けれどありえる話なのだ ショックを受けながら 全然違う雑誌を買った どうしてしまったんだろう

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愛していなくてほんとうによかった ただの遊びとして無茶苦茶にして後悔しなかった 誰も傷つかなかった きっとこれからも

寒くて寂しくて死にそうというわたしを あのひとは 「ウサギさんみたいだ」と言う 冬眠が出来たらいいのに 春が来るまでずっと眠れたらいいのにと思う

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Sは赤いスープが好きだった それは何か赤色の実で作るスープで 乾燥させて細かくしたものを煎じて飲んでいたんだと思う ケルキパでは女の気怠さに効くといわれ しばしば目にしたのだけど ここらの言葉ではなんと呼ぶのか知らないので まだ見たことがない もしかしたら存在すらしていないかもしれない