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あの日わたしはまだ田舎にある ちいさな事務所兼店舗で働いていて それなりに寒い日だったと思うし 実は暖かだった気もする Kはまだ生きていたけど 既に何年も連絡を取っていなかった
百貨店の店内放送が黙祷の時間を告げる あの日わたしは職場で 机の下に身を隠して震えていた 何もかもが変わってしまった世の中に対して その瞬間眼にした物事はあまりに少なすぎたし 語れることはない わたしはなにも 語るべきではない
今日 その時間 献血センターで採血をされていた 椅子についたテレビ画面には海を前に大勢の人々が並んでいる様子が 死者と行方不明者の数が映し出されている 看護師はわたしの右腕にすばやく針を刺した わたしはまだ東京より北に行ったことがなかった とても綺麗な桜が咲くという話だけを聞いたことがあって それが何処であるのか今ではもう定かではないのだった テレビではアナウンサーがそろそろ時間ですと言う チューブから血液が流れ出てゆくのを感じながら 頭の後ろにあるスピーカーから聞こえて来るサイレンに耳を澄ませ 眼を閉じて祈った
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「男に媚びるな」の言葉を間に受けたら「塩対応」とディスられた わかる わかるよね あたしにはわからないけど
「××の女性は個性的でお洒落」とか「日本の女性はここが変」とか うるさいな それが個性でしょうが どうせわかりっこないと思って それが総意であるかのように言うのやめて それぞれ違うことをどうして認めようとしないの 髪の色も肌の色もみんな違ってあたりまえなのに お揃いにしたいなら したいひとだけしたら良い 希望はやがて意思になる 良くも悪くも 就活で同じ格好をするのは苦痛だった 黒いスーツが似合わないから気分はいつでもお葬式 だけど ああ もしも周りが全員ド派手なパワースーツを着ている時代だったなら 黒いスーツを着ただろう そういう女なのだ そして 新卒の学生に求められていることを きっと 理解しない
「ズバリ 仕事です!」は?何の心理テストやってたんだっけ?あなたが一番優先することは? なに そういう質問だったっけ? 他はどんな答えがあったんだろうな まぁいいや あたしはあたしだもの…
『この日記は虚構であり 実在の人物及び団体とは一切関係ありません』
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ウルリーケにも グレートヒェンにもなれなかったわたしの春 通り過ぎていった季節 美しかったはずのひと時 わたしはあなたを愛していた 心から崇め 敬っていた そして畏れていた どれほど近くで話していたとしても 階段教室の教壇と座席のような関係ではなく 選ばれた学生だけが入室を許された狭い研究室における関係であっても あまりにも愛しすぎていたのだ
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北国に暮らす魔女は齢をとらない 自分の誕生日を山奥の洞窟に棄てて凍らせてしまったから 彼女は永遠に少女のままである それゆえにいつまでも若々しく可憐であるのだが わたしの母つまり魔女の姉であるのだが ベッドで朝食を食べて祝い 一族で集まってケーキを食べる日が減るのは良くないことだと こっそり日付のところだけ取り返してきたので 誕生日という日はやってくる なんて素敵なんだろう 齢もとらずに誕生日を迎えるだなんて! わたしは彼女の何十回目かの14歳の誕生日のためにまだ雪の残る山から樹々の間を抜ける風を紡いでストールを編んだ 湿度の低い空に似た涼やかな色合いで 夏に巻くとほんの少し冷たいのだ