Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

ヴォトカ流れる河のほとりで

Das Tagebuch der Lily Mercury

830

庭に毒草ばかり植えていた女のことを 魔女だと思っていたのだが 林檎を喉に詰めて死んだのだった 鈴蘭と狐の手袋が咲く庭の 畑に実る苺を誰も盗みにやって来ない 魔女ではなかった女の娘が育てた苺は歪なかたちをしている

 

f:id:mrcr:20170524193836j:image

Remove all ads

829

甘い水で濡れたあのひとの唇は薄くて軽い

思い出すのは骨ばった手の長い指とか ピアノを弾くように叩くキーボードの音とか たいしたことじゃない 大体もう顔もあまり覚えていない そういえばどんな声で喋るんだっけ 翻訳した日本語みたいな会話をしたね もっと自然に話せたら 少しはわかりあえたのかな それとももっと傷ついていたのかも 乾いた唇から煙 泣きかたも忘れた
Remove all ads

828

愛情表現が苦手な男だった 言葉にするなどもってのほかで 顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしていた わたしが傷つけられたのを知ったときに 相手を殺したいほど憎いと怒ったと人伝に聞いたことくらい 頭を撫でられたり 抱きしめられたりすることはなかった これからもきっとないだろう 昭和の男なのだ そしてわたしは時代に取り残された保守的な女でしかない

 

わたしにとっても 自殺未遂と失声症で癇癪を起こすことでしか愛情を表すことが出来ないというのは 実に不幸なことで 書き物をするなら言葉で表せばいいのにと嘲りを受けるだろうが 事実まったくの別物であるのだ 虚構の世界でどれだけ愛を語ろうとも 真実にはならないように 

Remove all ads

827

生まれたばかりの まだ生きることしか知らない子供たちを 後先も考えずに殺していった 禁猟区で 男たちは笑いながら 死んだ子供たちを籠に入れて街へ売りにゆくのだ 生け捕りにされた子供は 濁ったぬるい水のなかで弱り じきに力尽きてゆく

やがて沈黙の春がくることを 彼らは大して気にも留めはしない 余所者たちは好き放題にして また違う森を荒らしにゆくだけだから

 

いつしか子供たちは 毒を持って生を受ける 卵が割れて透明な粘膜と共に滑りながら草むらのうえをすすむから 悪い奴らはみなごろしにしてしまう でもそんな日ってくるのかな 

Remove all ads

826

『弱さを楯に嘘で固めた要塞に暮す生活はどうだい 僕にはもう身体以外何もないのだけれど 季節さえ良ければ悪くはないものだよ 太陽と共に生きていくということは ある意味では君らの大好きな自然豊かな生活というものだし 夜になれば好きなだけ流れ星を探すことだって出来る 轟々と流れる渓流を眺めるとき 君のことを思い出すよ いつまでも美しく 激しくあれ』

 

襲撃のとき彼は既に脱走していた 敵の金平党党員たちが熱した水飴爆弾を爆発させまくったので 我々は大怪我をし 仲間の多くはそのまま水飴と共に冷たくなって死んだ わたしは脱営し逃走した彼を恨んだ しかし無事であることを内心嬉しく思った 銀紙に書かれた手紙は溶けたチョコレートで汚れている 夏はもうすぐそこだ

Remove all ads

825

普通のセックスという幻想

 

18歳のときが初めてだった 処女懐胎をしなかったのは聖母として選ばれなかったということ

 

痛みについてはよく憶えている どうして出血には熱を伴うのだろう? 挿入 裂傷 破瓜 摩擦 摩擦 そして摩擦 泣き叫ぶわたしの口を抑えながら男は腰を激しく前後に揺らし「煩い」と言った

 

別の男は「もっと叫べ」と喘ぐ声を愉しんだ 頬を殴られたときに奥歯を噛み締めるのは 口腔が歯で切れないようにするためだなんて 知りたくもなかった それでも慣れるとどうということはない 叩く方も叩かれる方もすべて演技なのだ

けれども乳首を咬まれたら 悦びの悲鳴をあげて脚を絡ませながら 身体の奥底を締めなければならない どれだけ擦り切れて傷んでも どれだけ痛みで力が入らなくても それは加虐趣味のある彼にとって然るべきことだから

 

或る男は頸を絞められることを好んだ きつく絞めるとすぐ絶頂にいたるので 調整が必要だった 「もっと もっと強く」とねだりながら わたしの手首を握る男を冷ややかな視線で見下ろす 恍惚 官能 射精 放たれた精液はシリコン製の薄い避妊具のなかで白く濁る

 

わたしは狭い浴槽のなかで独りである

肉体それ自体が魂の牢獄であるというのが事実ならば 死によって初めて自由を得られるのであるが 自ら解放させることは感じられている なんという不幸なのだろう!

 

普通のセックス 普通の家族 普通の生活 あらゆる偏見と固定概念でつくられた愛と人生を願う 産まれなかった神の子を望む 普通の姿をした男たちに神の御姿を見る 血で汚れた手を胸のうえに重ねて祈る 狭い浴槽のなかでわたしはひとりである 冷めきった湯にふやける肉体が憶えている いつかの夜に 幸福であったという記憶だけが繋ぎ止めているのだろうか 鉄で出来たワイヤーのように 細く 鋭く

Remove all ads

824

館を出た日から義父の顔を一度も見ていない 戻ってきたら よく知らないけれど何処かへ行ってしまったようだ することもないので 夫の拳銃と靴を磨いていたが それもすべてぴかぴかになってしまった だからもう何もすることがない 上着には蒸気アイロンがかけられ 肩の金モールはブラシで整えられ ワイシャツには糊がついている ひと休みしようとキャビネットを開けたら 空になったデキャンタと 汚れたままのグラスが載った銀のトレイが置かれていて嫌な気分になったので 窓を開けて 二階から全部投げ飛ばしてやった 両手でかなり勢いよくやったつもりだったけど テラスの下の植え込みに落ちたようで何も割れる音は聞こえなかった

Remove all ads

823

生きることの意味は見つけたような気がするけど 価値まではわからない 存在するに値するほどの値打ちはない けれど価値が無くとも愛しいものはあるので それで好いんだ

Remove all ads

822

まだ明るい帰り道の草木の鮮やかさ 水を張った田園には空が映り 夕陽を煌めかせながら波打つ 畦道に咲いた綺麗な花の名前を知らないまま大人になって 一度も困ったことはない 灰汁が強すぎて食べるのには適してはいないと聞いているくらい 蛙なら鳴き声で大体種類はわかるのに

 

村に入れば栗の花の青臭い匂いと 換気口から味噌汁の匂い 隣の家では仔犬が5匹生まれたらしい

Remove all ads

821

通り過ぎていった一瞬の 事実が生成されるまでの長い 長い時間が 弾ける泡みたいな 溶けてった雪みたいな なにか

 

手紙を書かなかった 今日も

明日も書かないだろう


宛名の無い手紙が重なるのと 何も重ならないことと 泡を作ることと 雪を降らせること インク壺のなかで微睡めよ ペンを握るときが来るまで

Remove all ads