1993

古いアルバムのことを教えてもらった。そして、なぜあの地に先祖代々の墓があるのかも。浅井三姉妹に縁がある寺に眠るわたしの先祖のことを思う。よくわからないけれど、幼い頃から本堂の裏にある湿ったあの墓地が好きで、心が安らいだ。霊園が好きという友人のことや、墓地には人が眠るから怖くないが、神社は神さまがいるから怖いと教えられたことも思い出した。

1990

ベルリンの壁が崩壊したときの記憶はない。湾岸戦争のことは、うっすら憶えているけど、どういう事情でそうなったのかまでは知らない。子供の時はしょっちゅう戦争の夢を見た。焼け野原にいるのだ。怖いとか、悲しいとかいう気持ちではなく、ただ不安だった。まだ火が燻る街はもうほとんど瓦礫で、わたしは元の姿が思い出せないのだった。

21世紀になって、まだ車は空を飛んでいないし、旧型の戦車が砲撃を繰り返しながら、どんどん人を殺していく。訪れたことのない街が、どんどん様相を変えてゆく。会うはずだった人たちが、次々に燃えてゆく。悲しみは知る必要のなかった憎しみへと変わってゆくのだ。祈りなどなんの役にも立たない。ただ、祈ることしか出来ない。誰かの正義が、誰かの悪である限り、せんのないことだとしても。

1989

この国で一番信者が多い宗教を信仰する家庭に産まれた。信仰二世どころではない。漢字にしてたった六文字唱えれば、なんでも大体許されて、特に修行の必要もなく死んだら仏になれるらしい。

高校はカトリックだったので、その頃、割と真面目に改宗を考えていたけど、結局面倒くさくなってやめた。そういうわけで、今も毎日お祈りの為に主の祈りを唱えるけれど、わたしはあくまでも異教徒で、借り物の言葉で祈っている。でも、それが悪いこととは思わない。わたしの神さまはわたしのなかだけにいて、この国ではそれは許されることだから。

1988

昔まだアメリカとアフリカの区別もついていなかったころ、わたしは魔女になる為の修行を始めた。母は女になることを選んだので、魔法を諦めた。幾つかの呪文は知っているが使えない。使うことを許されていないという方が正しい。そういうわけで、パリとロンドンが同じ国にあると思っていた時に、ろくに勉強もせず、読み漁っていた本の中でハロウィンのことも知ったのだけど、結局仮装をしたことはない。久方ぶりに北方から帰った父は「そんなバタくさいことをするな」と言ったが、わたしはバタが好きだからやりたかった。だけど、あの仮装は悪魔祓いなのだ。魔女はやらない。

1987

チョルノーブリの原発事故が起きた次の年の春にわたしは産まれた。名もなき極東の地で、まだ雪に覆われた町の湖のほとりで、満月の夜だった。船乗りだった祖父の顔を知らない。海辺では鰊が獲尽くされて、父は炭鉱へ出稼ぎに行き、時折届く現金書留だけがその消息を知らせていた。海豹の毛皮なんて見たことがない町で子供たちは春に生まれて、年寄りは寒くて長い冬に死んだ。幼なじみのひとりが馬車に轢かれて死ぬまで、ひとはみな冬に死ぬと思っていた。ひとも、獣もみな冬に死んで、白い雪になると信じていたのだった。

1986

言い間違いを訂正した。非常に大切なことだったので、直す必要があった。彼女はおそらく探し出すことが出来るだろう。それは調査力や観察眼の鋭さではなく、第六感というか感覚的な力が強いからだ。神経衰弱はめっぽう弱いが、生まれてくる赤子の性別を当てるのは得意。そういうふうにして、ささやかな事柄が大きな危機になる前に乗り越えてきた。間違いは、もしかすると別の手助けにもなるかもしれない。

1985

天と点を繋げる。点と点ではない。

 

古い写真を見た祖母が、この人も、この人も死んでもたわと言い、あ、みんな死んではるわ。アハハと笑った。古い写真に写る3人の男たち、そのとき既にもう立派な大人だった。

1984

某市へ行く予定があるので、喫茶店について調べていた。なんど見ても駅の近くにあるのに、目的地と違う地図が表示されるのでおかしいと思ったら、旧国鉄と私鉄の違いだった。あまりにも離れているのでそこは諦めようと思うが、異国の名前を冠した素敵な喫茶店だった。気力があれば行くかもしれないが、片道3キロ歩くのだ。それはなかなか億劫なことではある。

 

同僚がコーヒーが好きだというので、ふたりで一服しながら時間潰しをしていたら、昔、喫茶店でアルバイトをしていたと言う。流行りの外資系カフェでなく、純然たる喫茶店だ。その話を聞きながら、わたしも学生時代にはコーヒーショップで働いてみたかったことを思い出していた。結局、佃煮工場で働いていた。夏でも薄暗い工場のことを、今でもよく覚えている。3時には洗面台に熱湯をはり、缶コーヒーを温めて他のアルバイト従業員に配って回ったものだった。たぶん、今も続いていると思う。